ほとんど無我夢中だった。 少し前を歩いていた二人の人間をあっという間に追い抜かし、真っ直ぐ真っ直ぐさくらの元へ向かった。 黒猫の小さな力では、人間を止めることは出来ない。 二人は確実に桜の樹を見に行く。 「さくらっ!」 樹に寄り添い空を仰いでいたさくらが、クロの声で振り返った。やんわりと微笑んで。いつものあの声で。 「どうしたの? そんな急いで……」 いつも通りしゃがんで、視線をわざわざ低く、合わせようとしてくれる。 今はそれさえももどかしく感じた。 「さくら、少しだけここ離れよう! ほんの少しで良いから……」 そうじゃないと、君が泣いてしまう。 言いかけた言葉が喉の奥で引っかかった。だって、さくらが困ったように笑ったから。 「私、そんなこと出来ないよ? この樹の下から動けないんだよ?」 忘れていたわけじゃない。 ただ必死になっていて、そこまで考えが行き届かなかっただけ。 「だって、私は『桜』だから」 目の前の少女は桜の精霊。少女ではない。桜。桜の樹、自体。自分から離れることなんて出来ない。 けれど、ここにいたら、二人が来る。 ねぇ、さくらは耐えられる? どうすれば君を泣かせずに済むんだろうか。 「……クロ」 言葉を必死に探すクロに、さくらは小さく声をかけた。耳に心地よいソプラノ。 「何があったの? 話して欲しいなぁ」 全部受け止めるよ、と。 口に出しはしなかったけれど、それでもさくらが伝えたかったことはわかった。彼女は何を話されても、それを真っ向から受け止める。だって彼女は桜の樹。黒猫よりもずっと長く生きている。ずっとたくさんのことを経験してきた。ずっと悲しいことをいくつも乗り越えてきた。 だから、ねぇ。一人で抱え込まないで話して? 彼女はそう伝えてくれた。 「……あの、ね」 話してしまおう。その方がさくらにとっても良いことなんだ。 けれど、小さく口を開いたクロの背後で小さな物音が響いた。 振り向かなくても、さくらの表情でわかってしまう。間に合わなかった。 「ほら。コレが前に話した桜。綺麗だろ?」 さくらが想い続けていた人間の声。毎年一人でここに来ていた人間。それが、今、隣に恋人を連れている。 「わぁーきれー……」 まばたきを忘れたように樹を見上げる恋人。今まで一度もここに来たことのない人間。 さくらはこの二人をどんな気持ちで見ているのだろうか。 クロは不安げにさくらを見上げたが、彼女は泣いていなかった。 ただその場に座り込んで、力なく笑っていた。 「……そっかぁ。クロが話したかった事ってこのことなんだぁ」 その笑顔は決して泣くことをこらえてるようには見えなかった。ただ少し気が抜けただけのような、そんな笑顔。 しばらく悩んでいたクロも、さくらの隣に腰を下ろした。 「悲しく、ないの?」 ずっと心配だった。さくらは泣いてしまうんじゃないかと思っていた。それなのに彼女はそんな様子を少しも見せなかった。 もう人間の会話も耳に届かない。 向こうもこちらなんて気にしていない。向こうから見れば黒猫がいるだけなのだから。 「……初めてじゃないから、慣れちゃったのかな」 人間の目に映らないさくらは小さく笑いながら答えた。 彼女は桜の精霊。クロが生まれるよりずっと前から生きている。目の前にいる人間が生まれるよりずっと前から。一体どれだけの年月を生きてきたのかクロにはわからない。 わかることはせいぜい、いくつもの別れを繰り返してきたんだと言うことくらい。 「だから。最初からこうなることはわかってたの」 最初から。望みがないどころの問題じゃないとわかっていた。今まで誰一人としてさくらの姿に気付いてくれた人間はいない。いたとしても、必ず別れなくてはいけない。生きていく時間が、世界が、違う。 「好きな人が幸せになってくれる。それだけで十分幸せよ。だって、好きな人の笑顔を見ることが出来るから」 風が吹くたび、桜色が一枚また一枚と宙を舞った。 クロは何も言わずそこにいた。 ずっと側にいるとは言えなかった。猫の寿命はあまりに短い。確実にさくらを残していってしまう。それなのに「ずっと」なんて言えなかった。 「……僕もさくらの笑顔が見たいよ」 さくらがどんな言葉を求めているかはわからない。けれど「ずっと側に」なんて言葉より、ずっと望みに近いものだと思ったから。 その証拠に、さくらが笑った。 「私もクロに笑っていて欲しいなぁ」 永遠なんて言葉は要らない。 今、この瞬間だけでも良い。 それでも、ねぇ。 こんなに輝いているから。 「だってクロは私のたった一人の友達だもの」 さくらの、そのたった一言が、不思議と胸に来て泣きたくなった。 Fin. |
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あとがき |