現代社会では考えられないほどの薄暗い部屋。灯りは小さなろうそく一つ。広い部屋の奥は、闇に包まれたままだった。外界とはまるで違う冷たい空気に、背筋が凍りそうになる。唾を飲み込む音さえも響きそうなほどの静寂。
 ふいに後ろから裾を引っ張られるような感覚がして、思わず声を上げそうになった。
「ねぇ、やっぱり帰ろうよ……」
 後ろから聞こえた声は、一緒にここまでやってきた少女のものだった。自分とは頭一つ分くらい身長の違う少女は、自分よりもずっと不安そうにしていた。
 その不安そうな手を握ってやりながら、部屋の奥へと歩みを進めた。
「帰るとこなんかないだろ。これからはここが帰るところになるんだから、中を全部見てかなきゃ」
 たとえどれだけ逃げ出したくても、もう他に行き場所なんかない。引き返すなんて選択肢、最初から存在してなかった。
 互いの恐怖感を誤魔化すように、繋いだ手に力を込めた。
 部屋は思っていたよりもずっと広かったのか、それとも時間があまりにも長く感じただけか、どれだけ歩いても部屋の奥にはたどり着けなかった。
 その不安を口に出そうとしたとき、ふいに卵の腐ったようなにおいが鼻をついた。
「っ、なんだこれっ!」
 突如部屋に充満した異臭に思わず鼻をおさえたが、その程度ではとてもこらえきれないほどの強いにおいだった。
 異臭から逃れようと、手を繋いだまま元来た道を戻ろうと駆けだした。けれど闇に包まれた部屋では、どちらから来たのかもうよくわからなくなっていた。それでも出口に向かってると信じて、むしろそれ以外の可能性をみじんも考えずに走っていた。
 あまりにも必死すぎて、だから、異臭が強くなっていることに気づかなかった。何かぐにゃりをしたものに足を取られ、転ぶまで。
「うわっ!」
 転んだ拍子に、手に持っていたろうそくの灯は消えてしまい、何を踏んだのか確認することがすぐには出来なかった。
 手を繋いでいた少女が不器用な手つきでマッチをこする音が聞こえてはいたが、ろうそくに灯るのはまだずいぶんかかりそうだった。仕方なく、手探りで自分が踏んだものの正体をつかもうとしたが、何かやわらかい布のような感触しかわからなかった。
 少女が火を灯せたときに、それの正体ははっきりとした。黒ずんだ布だった。
 よくよく目をこらしてみると、古ぼけた何かだとわかった。両手で伸ばしてみると、靴下の片方だとわかった。
 そして、黒ずんでいるのは血にまみれているからだとわかった。
「っ!」
 気づいたと同時に靴下を闇の中へと放り投げてしまった。
 あれはよく見ると、元々は白い靴下だった。それが黒ずんでしまうほど、血に染まっていた。
「なんなんだよここは!」
 思わず声を荒げると、少女が不安そうに「だから帰ろうって言ったのに」と涙声で訴えた。
「どこに帰るんだよ! 売られたとこに帰るのか? 逃げ出してきたってのに!」
 そんな簡単に帰れるのなら、こんなところにいない。売り飛ばされた子供には、帰る場所なんかない。帰ればまたあの生活に戻るだけなのに。あの生活が嫌で逃げ出してきたのに。
 だから、こんな紙切れ一枚にすがって、こんなところまで来たのに。
 小さく折りたたまれてポケットに仕舞い込まれていたコピー用紙を取り出して、改めて読み直した。それはどこにでもある安いコピー用紙に刷られた地図。詐欺師ならもっと上手い文章を書けるような、稚拙な文章。だからこそ、信じたのに。その拙さを信じたのに。
「……誰がこんなの送りつけてきたんだよ……」
 勝手に信じた自分が悪いのかもしれない。けれど、すがるしかないほど追い詰められていた。
 白いコピー用紙を握りしめていると、少女もポケットから同じものを取り出して、それを眺めていた。やはり少女も自分と同じだったのかと思い、その様子を視線の端にとらえていた。
「…………あれ?」
 けれど、それには小さな違和感があった。
 少女の手にあるそれはずいぶん黄ばんでいて、もう何十年も昔の紙のようだった。
 違和感が自分の中で大きくなりそうで、目をそらすようにうつむいた。うつむかなければよかったのかもしれない。うつむいたと同時に目に入ったのは、少女の足下。
 全身が凍るような悪寒。顔を上げることが出来なかった。少女の顔を見ることが出来なかった。
「だから帰ろうって言ったでしょ?」
 さっきと同じ言葉が、違う意味をもって聞こえた。
 彼女は、白い靴下を、片方しかはいていなかった。

 

お題は「卵・コピー用紙・靴下」
ジャンルは「ホラー」
ホラーが読めない(気持ち的な問題で)のに、書かされたので、なんとも……