maria
第一夜―神に仕えし少女。神に見捨てられし少女。
100年程前のロンドンは、ちょうど「切り裂きジャック」の時代……
人々が恐怖におびえていた頃……
「シスター・マリア!」
バンと勢いよく扉を開く音と、少年の声が礼拝堂に響いた。
「あら、どうかしましたか?」
シスターと呼ばれた女……と呼ぶには少々早い。
シスターと呼ばれた少女はにっこりと笑った。
「あのね、シスター。ここから逃げよう」
「?何から逃げるんですか?」
「ジャックザリッパーからだよ!知らないの?」
――ジャックザリッパー……それは、日本語では「切り裂きジャック」という……
「ジャックザリッパーなら、知ってますわ。もうすでに、お二人も犠牲になって……」
少年はシスターの言葉を途中で切った。
「違うよ!今朝、三人目の犠牲者が出たんだよ!!」
「……心配してくれてるんですか?」
春の日差しのような暖かい声だった。
「心配するのは、当然だよ……僕……シスターが死んじゃったらヤだもん……」
さっきまでとは違い、少年は消えそうな声だった。
そんな少年の様子を見ながら、シスターは優しく微笑んだ。
「……ありがとうございます……けれど、私はここから離れません。絶対に」
さっきまで俯いてた少年はパッと顔を上げた。
その表情は凍り付いていた。
「……なんで……」
「私がもし、ジャックザリッパーに殺されたら、それが運命だったと言うことです。私は、神の御心のままの人生を生きます」
少年はシスターに縋り付いた。
「イヤだ!!!神様の言う通りになんかならないでよ!」
そのまっすぐな瞳には涙がこみ上げてきていた。
シスターは少年を慰めながら、礼拝堂の奥にあるキリスト像を見上げるように言いました。
「もし……私がこの礼拝堂を出て行ってしまったら、このイエス様は一人になってしまいます。孤独という物は、すごく寂しい物です。私は、イエス様にそんな思いをさせられません」
「……シスター……シスターは、孤独になったことがあるの?」
そう聞くとシスターはにっこり笑った。
その笑顔は少し寂しそうだったような気がする。
少年は、聞いちゃいけないことを聞いてしまったような気がした。
だから、急いで話題を変えた。
「シスター、僕がジャックザリッパーから守ってあげるよ!」
「ふふ……とても嬉しいのですが、お気持ちだけで充分ですわ」
いつもの笑顔で笑った。
「えぇー!?遠慮しなくていいんだよ!」
「では、お母様を守ってあげてください。きっと、お母様もお喜びになりますわ」
「お母さんは、お父さんが守るからいいの」
「ナイトは、多い方がお母様も安心なさると思いますが」
少年はしばらく考えてから、顔を上げて言った。
「お母さん、安心できるかな?」
「ええ。もちろんですわ」
――夜
霧の町ロンドンの夜は不気味な感じがした。
その不気味さを一層引き立てるのがジャックザリッパー。
そう、夜はジャックザリッパーの出る時間。
人々は恐れて、出歩かない。
それでも、出歩く者がいる。
女が歩いていた。
一人で夜道を歩く女。
ジャックザリッパーにとってはこれ以上の標的はいないだろう。
まさにそんな女だった。
その女に、近づく影があった。
女は全く気づかない。
どんどん近づく影。
女が気づいたときにはもう遅かった。
絹を裂くような悲鳴がした。
その悲鳴に動じず、影は女に襲いかかった。
血しぶきが飛んだ。
女はもう、生きてはいなかった。
それでも影は楽しそうに女を切りつけていた。
どれぐらい、そうしていただろう。
影の動きが止まったのだ。
影は、女を見下ろしながら、止まっていた。
「……ぁ……ゃ……」
声にならない声を発した。
その声の主は、糸の切れたマリオネットのように急にその場に座り込んだ。
「私……私……」
血の付いた自分の手と、目の前の女を見つめながら、つぶやいた。
「私……何故こんな事を……」
その声はシスター・マリアのものだった。
「まさか……私が……ジャックザリッパー……?」
身に覚えがなかった。
シスター・マリアに人を殺した覚えはなかった。
その時、シスター・マリアの中で声がした。
知らない誰かの声。
聞いたことのない声。
その声はくすくすと笑っていた。
氷のように冷たい声だった。
『……自分がやったことも覚えてないの?ばかねぇ……』
「……貴方は……誰ですか?」
シスター・マリアは周りを見回しながら訊いた。
声はまたくすくすと笑った。
『ばかねぇ……私は、貴方自身よ……シスター・マリアよ……』
シスター・マリアは体中の血の気が引くのを感じた。
「私……自身?どう言うことですか?」
『いわゆる多重人格って奴よ……貴方は気づかなかったでしょうけど』
「多重人格?では、ジャックは……」
声は楽しそうに笑った。
『私に決まってるでしょ?ずいぶん楽しませてもらったわ』
「……うそ……」
マリアは愕然とした。
声は相変わらず楽しそうだった。
『どうかした?そんなにショック?そりゃぁ、そうよねぇ……神に仕えるあんたが人を殺してるんだから……』
「私……どうすれば……」
『どうすれば?そんなのあんたの好きなようにしなさいよ。もっとも、あんたが何をしようと私はジャックを止めるつもりはないわよ』
マリアは顔を上げて言った。
「貴方を……表に出させなければいいんですよね?」
『なに?私を表に出させないつもり?言っておくけど、そんなことあんたには出来ないわよ。あんたより私の方が強いんだから』
マリアはふと、首を傾げて聞き返した。
「何が強いんですか?」
『知らないの?ふーん……』
声はそれ以上特に話そうとしなかった。
「ですから、何が強いんですの?」
『あんたなんかに教えてやんないわよ』
声はくすくすと笑いながら言った。
『せいぜい考える事ね。それが分からない限り、あんたと私の位置が変わるのも時間の問題ね……』
それっきり、声は何も話さなくなった。
「……位置が変わる?」
マリアはその場で不思議そうにしていた。
第二夜―神と少女。
――翌日
「シスター・マリア!!」
昨日の少年だ。
手には何か紙が握られている。
「ほら、見て!また出たんだよ!ジャックが!!」
そう言って見せたのは手に握られていた紙。
そう、それは新聞だった。
「……えぇ。知っていますわ」
マリアは優しく微笑んだ。
「あのね……だから……気をつけてね?」
「はい」
「僕も、お母さんを守るから、シスターも頑張ってね?」
「はい」
何を頑張れというのか、よく分からなくても、何となくは分かった。
だから、マリアは頷いた。
「はやく……はやく、ジャックが捕まると良いね!」
「……そうですね……」
――辛かった。
どうして嘘をつかなくてはいけないのだろう……
どうして?
そんなこと、分かってるのに……
私がジャックだから、その事を隠すために嘘をついているんじゃない……
この子に、知られたくないから……
分かっていても、辛い……
誰もいない礼拝堂でマリアは膝をついた。
「主よ……」
この罪を見逃せなんて言わない。
許せなんて言えない。
いつか、全てを終わらせたら償うから。
だからそれまでは……
「どうか……貴方の御加護を……」
『ずいぶん都合の良いこと言ってるのね……』
マリアの中でまたあの声がした。
氷のように冷たい声が。
「……また……貴方ですか……」
マリアは顔を上げずに呟いた。
「何か……ご用でしょうか?」
『あら、自分に対してずいぶん冷たい態度をとるのね……』
「……ご用がないのでしたら下がっていただけませんか?」
マリアは相変わらず顔を上げようとしなかった。
『用ならあるわよ。この体をさっさと受け渡して』
その言葉を聞きマリアはやっと顔を上げた。
「昨日からなんなんですか?『位置が変わる』『受け渡す』って、どう言うことなんですか?」
『意味なんてそのままよ。私が主人格になるの』
声は実に楽しそうに続けた。
『そうなったら、私はあんたを二度と表に出させないわよ。だから今のうちにこの世界を目に焼き付けて置きなさい』
マリアはしばらく呆然としていたようだがすぐに持ち直して言った。
「私は貴方なんかに負けません!この体は私の物です!絶対に渡しません!」
そこでマリアは一息ついてから続けた。
「この世界を目に焼き付けておくのは貴方です!」
その声は誰もいない礼拝堂によく響いた。
『ふふ……あんたが私に何で負けているのかも分からないくせに……』
マリアは思わず拳を握りしめたがすぐに解いて大きく息を吐いた。
「……今から探してもまだ遅くはないはずです。違いますか?」
そう言ったマリアの瞳は悔しさなど全くなかった。
しばらく声は何も言わなかったが開き直ったように言葉を発した。
『だから?確かに今からでも遅くないかもしれないけど、今のあんたじゃ私には勝てない。絶対に』
その言葉は負け惜しみではなかった。
その事はマリアにも分かった。
「なぜ……そんなはっきりと言いきれるんですの?」
声はいつもと同じようにくすくすと笑いながら言った。
『あら、あんたが一番よく分かってるはずよ……だって、あんたは私を必要としているから……』
――ヒツヨウトシテイル……
「貴方!それ、どういう事なんですか?」
マリアは思わず大声を張り上げた。
それに対して声は呆れたように言った。
『ちょっと、そんな大声出さなくったって聞こえるわよ』
声は軽くため息をついて話を続けた。
『あんたが一番よく分かってるって言ってるでしょ?聞いてなかったの?』
「……聞いてました。ですが、私は貴方なんて必要としてません!」
先程の言葉が効いたのか大声を張り上げたりはしなかった。
少しだけ寂しそうな声が返ってきた。
『あんたが必要としてなければ私はこの世に存在しないのよ』
「けれど……私は貴方なんていらない……」
神に仕える身なのにどうして神に背く者を必要としなければいけないの……
どうして私が殺人鬼なんて……
ジャックザリッパーなんて必要としなければいけないの……
いらないいらないいらないいらないいらないいらないいらない……
『あんたがなんて言おうとあんたは私を必要としてるのよ……絶対に……』
マリアの中でその声だけが響いてた。
意識が遠退く中、
声だけがずっと響いてた。
ずっと、ずっと。
第三夜―神を信じない少女。
私……何を忘れているの?
何か……何かを忘れているような気がする……
何かを忘れていないなら私は必要としない……
私の知っている限りでは必要としていない……
必要としている理由を忘れている……
何を……
あれは……確か私が小さかった頃……
とても貧しい暮らしをしていた頃……
お父さんとお母さんがいた頃……
あの頃は幸せだった。
貧しくても幸せだったの。
……それは覚えてる。
それじゃない。
私が忘れてるのはそれじゃない。
もっと前?後?
……そう言えば私……どうしてひとりぼっちなんだろう……
いつからお父さんもお母さんもいなくなったの?
いつから神様にこの身を捧げたの?
思い出さなきゃ……
きっと……きっとそれさえ思い出せれば殺人鬼を止められそうな気がするの……
あの日は……そう。クリスマスだった。
お父さんがなかなか帰ってこなかった。
ずっと待ってたのに。
一晩中待っても帰ってこなかった。
次の日の朝にはお父さんが見つかった。
裏路地で動かなくなって……
……刺されて……
!……っつ……頭が痛い…
……思い出したくないの……?
でも……でも……思い出さなきゃ……
思い出さなきゃ……殺人鬼を止められない……
それから……お母さんは……?
愛してたお父さんがいなくなって……
……お母さんはおかしくなった……
優しくなくなった……
……毎日……殴られて……蹴られて……
耐えるしか出来なかった……
お母さんのことが好きだったから……逃げる事なんて……
……お母さんを一人にすることなんて出来なかった……
……けれど……
……あの日だ……
お父さんがいない2度目のクリスマス……
……あの時に……お母さんが……私に……刃物を……
私を……殺そうと……
痛っ!!
……頭が……割れそう…
いやだ……思い出したくない……
……ここから先は……
思い出しちゃいけない……
……でも……
……殺人鬼が……
……あの時初めて……殺人鬼が表にでたんだ……
……そして……お母さんを……おかあさんを……………………
「…………嘘だ……」
その時、マリアは自分の手と足元を見ながらそう呟いた。
右手にはいつもお母さんが使っていたナイフ。
ただし、今は真っ赤になっていた。
マリアの手も真っ赤でベトベトしていた。
足下にはお母さんが倒れていた。
「……嘘だよね?ねぇ……お母さん……」
呼びかけても応答はなかった。
「……お母さん……?」
体を揺すってみたけど、反応はなかった。
「……嘘だって言ってよ……お母さん……」
恐くなった。
この世に自分ただ一人残されたみたいで。
ただ、首を横に振って泣くしか出来なかった。
その時、ふと声がした。
『自分で殺しておいて、何バカ言ってるの?』
「……だぁれ?……」
マリアは辺りを見回してみたが誰もいなかった。
『どこ見てるの?ここよ。貴方自身よ』
「わたし?」
『私は私で貴方でもある。そして、そこの女を殺したのも私』
マリアはその言葉にひどく驚き、思わず声を張り上げた。
「あなたがお母さんを殺したの?!!」
『あら。自分で望んでおいて……感謝されても憎まれる覚えはないわ』
「違う……私はそんなこと頼んでない……思ってない……」
――本当?
『あんなに殴られて、蹴られて、おまけに殺されそうになっても?』
声は楽しげだった。
「……そんなこと……無い……無いよ……」
マリアの声はだんだん小さくなっていった。
……そうだ……
あの時からだ……
自分の罪を償うために……神に仕えようと思ったのは……
けれど、償えるはず無い。
神にこの身を捧げるだけで罪が消えるはずがない……
……どうしてそんなことに気付かなかったの?
そんな簡単なことに。
どうして、この罪を忘れていたの?
どうして……
それはきっと……
……罪を認めるのがこわかったから……
私がとても弱いから……
そして、私は『殺人鬼』を必要としてた。
弱くて、その罪を誰か別の人にかぶせたかったから。
自分の罪だと認めたくなかったから。
……結局は自分の罪になると知らずに………
弱いね……すごく……
でも、もう逃げない。
罪を償うことを先に延ばしたりしない。
私は罪を認める。
全てを終わらせてからなんて言わない。
そんなことを言ってたら、また被害がでるだけ。
そして、きっと私はまた逃げてしまうから。
だから、いますぐにでも。
この罪を償います。
目を覚ますと礼拝堂の中にいた。
あれからどれほどの時間が過ぎたかはわからない。
けれど、あまり長い時間ではなかったらしい。
まだ日が高い。
「さぁ。行きましょうか」
マリアは立ち上がると軽く埃をほろって後ろを振り向いた。
「さようなら、礼拝堂。そして……」
キリスト像を真っ直ぐに見つめてから歩き出した。
神様なんて本当はいない。
いるのなら、この世に不幸な人なんていないはずだから。
きっと、世界中が幸せになるはずだから。
「……さようなら。もう一人の『私』」
もう声はしなかった。
もう一人もきっと幸せになるはずだから。
神様なんて信じない。
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