「……誰?」
 彼女の声を聞いたのはそれが初めてだった。

空〜Dream in The Sky〜

「誰って……こっちが聞きたいんだけど」
 何故か俺の家の庭で寝ていた少女は不思議そうな瞳でこっちを見上げていた。
「……貴方……誰?」
 こっちが質問しているというのになんで答えないんだ?
 イライラして、それが声に出そうになった。
「俺はこの家に住んでいる飛翔祐だ。それで、君は誰なんだよ?」
「わかりません」
 少女ははっきりとそう告げた。
 これはひょっとしなくても記憶喪失という奴だろうか?
「……じゃ、なんでここに居るんだよ?」
「気が付いたらここにいました」
 俺は頭を抱えたくなった。
 話が全く進まない。
「……何か、覚えてることは?」
 少女は少し考えてから小さく首を横に振った。
 それを見た俺が肩を落とすと、少女は慌てたように言った。
「あの、でもっ!覚えてることって言って良いのかわかりませんが……」
「なんかあるのか?」
 顔を上げて尋ねると少女は大きく頷いた。
「空が飛びたいんです」
 少女は真面目な顔をしていた。それが、余計に始末が悪かった。
 大真面目な顔をして空を飛びたいとか言われてもどうしようもない。
「……他にはないのか?覚えてること」
 わずかな希望を胸に尋ねたが、少女は返事のかわりに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「…………わかった。空を飛ぶのは無理だけど、空に近いところには連れていってやるよ」
 俺がそう言って立ち上がると少女は慌てて立ち上がった。
「いえっ!そんなご迷惑お掛けしては……ただでさえご迷惑をお掛けしているのに」
 一応、自分でも迷惑をかけているという自覚はあるらしい。
 だが俺は笑って言った。
「乗りかかった船って言うだろ。記憶が戻るまでは付き合ってやるよ」
 相変わらず申し訳なさそうにしていたが、少女は嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。
「……ありがとうございます」
 その笑顔を見たとき、俺の頭の中にバカみたいな考えが浮かんで消えた。その考えはあまりにもばかばかしくて、どうしてそんな考えが浮かんだのか不思議なものだった。

「……わぁ……高ぁい……」
 連れてきたのは山の上にある展望台。
 この街を見下ろせるくらいの高さはある。
「ほら、下を見るんじゃなくて上を見る」
 空を飛びたいと言ったから高いところに連れてきたのに彼女は街を見下ろしていた。
 だから、コンと軽く頭を小突こうとした。
「……ぁ」
 彼女は瞳に何かを映したまま、止まった。
 小突く前に声が返ってきたので俺は小突くのを止めた。
「そうですね!空を見なきゃ意味ないですよね」
 どことなく落ち着かない様子で彼女は空を見上げていた。
 じっと空を見ていた。
「……何か思いだしたか?」
 あまりにも真剣に空を見つめていたから声をかけるのに戸惑ったが、俺は静かに沈黙を破った。
 すると彼女は小さく頷いた。
「はい……全部思い出しました」
 手すりに身を預けながら彼女はゆっくりと話し出した。
「私の名前は神柳明……空をずっと夢見ていた愚かな娘です」
 彼女―明は今にも壊れてしまいそうな笑顔を浮かべた。
「自分の居る場所が嫌で、そこから飛び出したいと思って空を夢見ていたんです」
 俺は明が何を言いたいのかわからなかった。
 口を開こうと思ったが、その言葉を遮るように明は言葉を続ける。
「人間は空を飛ぶことなんて出来ないのに……本当に……愚かだったんです」
 俯いたまま明は口を閉ざしてしまった。
 俺は声をかけて良いのかわからず途方に暮れていたが、やがてぱっと明が顔を上げて微笑んだ。
 明るい、花のような笑顔。
「でも、そのおかげで貴方にもう一度会えてよかった!貴方が思っていたとおり優しい人で本当によかった」
「もう一度って……前に会ったことあったか?」
 俺にはそんな覚え全くなかった。
 だが、明は笑顔で答えた。
「あるよ。一回だけ。覚えてないだろうけど」
 すると、明は俺の顔を覗き込んできた。
「今日はありがと。じゃ、さようなら……」
 そう言うと明は手すりをぽんっと乗り越えた。
 手すりの先は崖……
「明?!!!!!」
 慌てて手すりから身を乗り出して下を見たが、何もなかった。
 何が起きたのか俺には理解できなかった。
 それを知ったのは次の日だった。
 俺はいつも通り病院に行った。
 別にどこか悪いわけでも、医者なわけでもない。妹の見舞いだった。
「……どうしたんだ?」
 病室を覗くと、何故か泣いている妹の姿があった。
 妹は涙声で「友達が死んじゃった」と言った。
 その友達は入院してから出来た友達―つまり入院していた子らしい。
 よっぽど大変な病気だったんだろうと思い、俺は妹を慰めていた。
 ふと、近くにいたナースが妹に声をかけた。
「明ちゃんのこと、本当に残念だったわねぇ……」
 俺は耳を疑った。
 偶然だろうか?
「……明って……神柳明……?」
 そう呟くとナースは驚いたように俺の顔を見た。
「お兄さんも知ってたんですか?」
 ここまで偶然が重なることがあるのだろうか?
 昨日、急に姿を消した彼女と同姓同名の少女が昨日死んだというのは。
「どんな病気……だったんですか?」
 そう聞くと彼女は声をひそめて言った。
「いいえ、窓から飛び降りたんです」
 俺は、言葉を失った。頭が真っ白になった。思考が全て停止した。

 数年前からこの病院にいたらしい。
 治ることのない病気とずっと闘っていたらしい。
 そんな彼女と俺はたった一度だけ言葉を交わしていた。
 妹が病室に友達を大勢連れてきているときだった。学校の友達、病院の友達、近所の子達が病室にあふれ返っていた。
 その中に彼女もいた。
 青白く弱々しい顔をしているから心配になって声をかけたんだ。
「大丈夫か?」
 すると彼女は弱々しく微笑んで「大丈夫」だと言った。
 けれどその日以来、彼女は病室から出てこなかった。そんなことも俺は知らなかった。
 彼女は不治の病という現実から逃れたかったんだ……
「……今更そんなことに気付いてもな……」
 病院の屋上で独り、出来ればもっと早くに気付いてやりたかったなと思う。
 そうすれば、もう少し彼女の笑顔を見ていられただろう……
 壊れてしまいそうな笑顔じゃない。無理に作った花のような笑顔でもない。本当の笑顔。
「……天使みたいだと思ったんだよな……」
 バカだと自分でも思った。
 この少女は記憶をなくした天使なんじゃないかと本気で考えてしまったのだから。
 記憶を取り戻したら空の上に帰ってしまうのではないかと思った。
 けれど、現実はそんなものじゃなかった。
「…………空が……青いな……」
 彼女が夢見ていた空が目の前にある。
 手を伸ばせば届きそうな空。でも、決して届くことはない。
「明に似てるな……」
 手を伸ばせば届くほど近くにいたのに、結局手を伸ばさなかった。手を伸ばせばよかったのに。
 どうして今更になって後悔ばかりしているのだろう?
 後悔をしても仕方ないのはわかっている。
 けれど、この事を忘れて良いとは思わない。だから、空に手を伸ばしながら俺は呟いていた。
「せめて、明がこの空を飛べていますように」
 小さな願いはあの少女に届いているのだろうか?

 

書いた日付が2003年……言い訳も出来ません