あのときの、あなたの、あの表情。
あたしは、絶対に忘れない。
だからあなたも忘れないで。あたしのこと。
あなたにわがままを。
「ねぇ、手を繋いで!」
少し前を歩くあなたは、困ったように笑った。わかってる。困ったように、じゃなくて本当に困っているんだってことくらい。
「繋いでくれないなら、人混みの中ではぐれてやるんだから」
その言葉に観念したのか、渋っていたあなたは大人しく手を差し出してくれた。大きな手。堅くてゴツゴツしてて、でも綺麗な大人の男の手。それに比べて、あたしの手の何て貧相なこと。小さくて、やわらかくて、でも簡単につぶせそうな手。そんな手なのにあなたは「綺麗な手」だと言う。ただのお世辞かしら。お世辞でも構わない。それでもあたしはあなたに褒められたことがどうしようもなく嬉しかった。
繋がっている手を少し引っぱると、あなたは眉をひそめて振り向いた。
「お腹がすいたわ。何か買って」
あたしのいつものわがままに、あなたはやっぱりため息を吐く。そして心底困った表情になる。返ってくる言葉だってわかっているわ。家に帰れば食べるものがあることくらいわかっているわ。それでも言いたいのよ。あなたを困らせたいのよ。
けれど、返ってきた言葉はいつもと少し違ったわね。
「一つだけ、なら。ただし家での食事は決して残さないように」
なんて子供扱いかしら。食事支障が出るほど食べると思っているなんて。本当に悔しいわ。悔しくて、悔しくて……
繋がったままの手を引いて、あたしはあなたを引っぱって、勝手に歩き出した。急なことに驚いてあたしの名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、止まってなんてあげないわ。
「歩くのに疲れたの。どこかで休みましょう」
それらしい言葉を並べて、あたしは人混みの中をかき分けていった。そんな自分勝手なわがままでさえ、あなたは聞いてくれる。あたしを止めようとは決してしない。
息苦しいのは、きっと人混みのせい。
人混みを抜けると、偶然空いたベンチに腰掛けた。あなたはやっぱり、少し間をあけてあたしの隣に座る。
どうしようもなく悔しいわ。
「……お腹は?」
唐突に降ってきた一言が何のことだかよくわからなかった。けれど、目の前……人混みの向こうに並んでいる夜店を見て「あぁ」と思い出した。そういえばお腹がすいたと言ったのだった。
「もうどうでもよくなったわ」
もともと困らせたくて言っただけの言葉。それほどお腹はすいていない。
あなたは気付いているのかしら。あたしの言葉一つ一つが大した意味を持たないことに。あたしのわがまま一つ一つが、あなたを困らせるためだけにあることに。
目の前を通り過ぎていく人混みを見ていると、不思議な感じがしてくる。寂しいような、むなしいような、夢のような、不思議な感じ。
ひょっとしてこれは全部夢なのかしら。今日あったことは全て夢なのかしら。それならいいのに。全部夢ならいいのに。
ため息を吐くと、隣から疲れたのかという質問が降ってくる。そうね、疲れているのかもしれないわ。
「……そうね、もう帰るわ」
行きましょうと言って手を差し伸べかけた。けれど、伸ばせなかった。
「送りましょう」
あなたの一言で現実に戻される。
これは夢なんかじゃないのだと。全て現実。
あなたがあたしの側からいなくなるのも、あなたに会えなくなるのも現実。
あたしが子供だからかしら。悔しいわ。悔しいのに、どうにも出来ないなんて。
「……一人で帰れるわ」
そう言ってあなたを突き放そうとしたけれど、あなたは困ったようにあとをついてくる。やっぱりあたしはわがまましか言えないのかしら。
人混みを避けるようにわざわざ人通りのないところを選ぶとあなたは「危ない」と言う。あたしを心配してるのかしら。それとも最後だからかしら? そんなことを考えてばかみたいだと思った。
後ろを振り向いてみると、困ったような心配してるような顔で、でもしっかりとついてきてるあなたがいた。
あたしはあなたを困らせて振り回してばかりね。
それも今日で終わりだけれど、あなたはどう思っているのかしら。楽になるのか、それとも少し寂しいのか。きっと楽になるんでしょうね。これだけ困らせてきたんだから。
悔しいわ。
思い出は美化されるものなのよ。これだけ困らせてきたのに、美化されて思い出にされてしまうのよ。あたしのことまで美化されるのよ。あたしはあたしを覚えていて欲しいのに。美化されたあたしはあたしじゃないのに。
何年か経って、美化された思い出に浸って、美化されたあたしを思い出して「懐かしい」とあなたは呟くのかしら。
そんなあたしじゃなくて、ちゃんとしたあたしを覚えていて欲しいのに。
今見上げている星空は綺麗だと言えるほどのものじゃないけれど、街の灯りのせいで星なんてほとんど見えないけれど、いつかあたしの中で美化されてしまうのかしら。
この瞬間、この一日、この数年、全て美化されるのかしら。
いやだ。
あたしは美化したくない。今ここにあるそのままの姿を覚えていたい。
「……ねぇ」
振り向いて、あなたを正面にはっきりと見据え。あなたのすべてを目に焼き付ける。
だから、あなたをあたしを、今のあたしを覚えていて。
「あなたが好きよ」
口の端に笑顔を浮かべて言うと、あなたは驚いたように目を見開いた。その一つ一つを目に焼き付ける。
「だから、いつか攫いに来て。約束よ?」
最後のわがままにも、やっぱりあなたは困っていた。
あなたのその表情を絶対に忘れないわ。
だから、あなたも忘れないで。あたしのこと。あたしのわがまま、すべてを。
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