そうだ。
そもそも、噂を信じてわざわざ山一つ越えてここまで来たんだ。それなのに、相談もせず帰るなんてこと出来るはずない。
黄麻は、ゆっくりと呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。
「……あれ?」
が、ふと首を傾げたまま止まってしまった。
初音はしばらく待っていたが、いつまでたっても黄麻が動き出さないので心配になって、おずおずと声をかけた。
「黄麻、さん? どうしたの?」
初音の言葉をきっかけに、黄麻の表情が崩れた。本気で泣き出しそうな表情だった。
「どーしよぉー……」
「え、や、そう聞かれても……話してもらわないとこっちはどうにも出来ないんだけど……」
泣き出しそうな黄麻を、どうにかしてなだめようとしたが、残念ながらそう簡単にはいかない。
ついに、黄麻は瞳にこぼれそうなくらいの涙をためて言った。
「悩み事、何だったか忘れちゃったぁ……」
「はいぃ?!」
黄麻の予想外の言葉に、初音はどう対応して良いのかわからなかった。
悩みを相談するためにここまで来たのに、その悩みを忘れたって一体どういうことなのだろう。
泣き出しそうな黄麻と、対応に困っている初音に、助け船とは言い難い船が現れた。
「お前が箒で頭叩くから忘れたんじゃないか?」
誰よりも一番初音に頭を叩かれている槐が言った。
確かに、その可能性は否定できない。
「……そうね。確かにそうかもしれない……」
小さく呟きながら、初音が立ち上がった。箒を握りしめて。
反射的に黄麻は身の危険を感じた。
場に妙な空気が流れた。
「黄麻さん、覚悟ー!!」
叫ぶと同時に、初音は黄麻に向かって箒を振り下ろした。
だが、そう簡単に当たる黄麻ではなかった。かろうじて避けたが、やはり先ほどまで黄麻がいた場所は見るも無惨になっていた。
「殺す気ですかー?!!」
そう叫ばずにはいられなかった。
当たったら、確実に死ぬと思った。
しかし、初音は失礼ねと言った。
「箒で殴ったせいで思い出せないなら、同じ衝撃をもう一度与えればいいと思ってるのよ」
本気でそう思っているあたりが、怖い。
地面を破壊出来る衝撃を、本気で頭に当てようとしているのだから恐怖以外の何ものでもない。
「その気持ちだけで結構です!」
黄麻は全力で逃げ出した。悩み事よりも、自分のみの安全を選んだ。
「待ちなさい!」
逃げ出した黄麻を、初音は全力で追いかけ始めた。相手が身の危険を感じてるなんて微塵も思っていないらしい。
その場に一人残された槐は、煙管をふかしながら、どちらが勝つだろうとぼんやり考えていた。騒ぎの元凶は我関せずを決め込んでいた。
おわり
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