あの時、首を縦に振れば良かった……
 それだけで良かったのに。
 例え、それが一番許されないことだとしても。

THE DOLL HOME
―ニンギョウノヤカタ―
〜許されざること〜

 好きだと言うことも許されないの?

 恐怖を感じて屋敷から飛び出してきたが、よく考えてみればそれほど恐くはなかったと思う。
 紫蘭に対して「恐怖」という感情はなかった。何に対して「恐怖」を感じたのか。達巳自身それはよくわからなかった。
「……さようなら……」
 そう聞こえた気がして達巳は振り返った。
 その声は紫蘭のものによく似ていた。
「……紫蘭?」
 二階のあの部屋。あそこの窓から空を見ていた。
 涙が見えた。
「……」
 涙を流している紫蘭に恐怖という感情は沸かなかった。恐怖とは違う感情がわいてきた。
「……なんで泣いてるんだよ……」
 長い沈黙の後、やっとの思いで声を出した。呆れたように頭をかいてみたりした。
「……笑ったり泣いたり忙しい奴……」
 思わず笑みがこぼれた。

「……もう朝なのね……」
 朝は嫌いではないが、今の身体になってからは好きになれなかった。
「……あまり……太陽に強い身体じゃないからね」
 紫蘭の身体は弱くなっていた。太陽の下に出ると体中がだるくなる。だから昼間はカーテンを閉じ、部屋にこもる。
 けれど、今日はすることがある。真魚の身体を修理しなければならない。
 地下室に行こうと思い、紫蘭がドアノブに手をかけたときだった。扉が開いた。紫蘭はまだノブを回していなかった。
「……え……」
 開いた扉から入ってきたのは達巳だった。
 紫蘭が人間ではないと知って屋敷を飛び出した達巳だった。
「なんで……?」
 どうして戻ってきたのだろうと思った。けれど、声にはならなかった。
「俺が帰って来ちゃいけなかったのか?」
 達巳は少し意地の悪い笑顔を浮かべていた。その笑顔に一瞬だけ心がおかしくなりそうだったが、紫蘭は達巳を睨み付けた。
「貴方、私が人間じゃないと言うことを信じないの?」
 信じなくてもおかしいことではない。紫蘭は人間ではないと言っただけ。証拠はまだ何も見せていない。
「いや、信じてる。ただ、人間じゃないから何なんだって思っただけだ」
「……人間じゃなければ化け物よ。さっきも言ったでしょ?」
「そうじゃない」
 達巳は紫蘭の言葉を遮るように口を開いた。
「人間だと思っていた相手が人間じゃなかったからって逃げる必要はないと思ったんだ」
「……それは……」
 紫蘭の瞳がうつむく。
 淡い期待を抱きそうになった。けれど、紫蘭はその期待が叶わないことだとわかっていた。そして期待を抱きそうになった自分をばかだと思った。
「……ばかじゃないの。逃げなければ化け物に殺されるとわかっていて逃げる必要がないの?」
 顔を上げた紫蘭は人を小馬鹿にした瞳をしていた。
 達巳は紫蘭の頭を撫でながら微笑んだ。
「紫蘭は人間を殺さない」
 その言葉に紫蘭の肩がわずかに反応した。
「俺を殺すつもりだったのなら、最初の時点で屋敷に入れてるだろう?それに……」
 達巳は紫蘭の目線に合わせるためにしゃがんだ。そしてそっと紫蘭の目尻を拭った。
「自分が化け物だって話した後に泣く奴が、人を殺せると思うか?」
 達巳が微笑むと紫蘭は目をそらした。そして手を堅く握りしめた。
「……私が何者か知ってる?」
「……え?」
 紫蘭は目線をそらしたまま言葉を続けた。
「私は、愚かな化け物なのよ」
 紫蘭の肩がわずかに震えているのに達巳は気付かなかった。
「太陽の下に出れば激しい嘔吐感が襲い、人間の生き血以外を口にすることは出来ず、年もとれずに生きていく。吸血鬼なのよ?」
 ゆっくりと息を吐くと、紫蘭は達巳の瞳を見た。わずかに微笑みを浮かべて。
「私は人間を殺さないと生きていけない化け物なのよ」
 達巳は何も言わなかった。ただ、紫蘭の瞳をじっと見つめていた。
 瞳を見つめ、小さく呟いた。
「だから何だって言うんだよ?」
「……貴方わからないの?側にいたら殺されるってことも」
 この数日、何も口にしてない。
「貴方が玄関にいたせいで私はこの屋敷を出られなかったの。何日も食事をしてないの今の私の瞳に貴方がどう映ってると思う?」
 空腹の猛獣の目の前をウサギが通りすぎたら、ウサギは食べられてしまう。
「貴方がどれだけ美味しそうに見えてると思ってるの?」
「だから何だって言うんだよ?」
 達巳は先程と何も変わらない言葉を発すると、自分の首筋を指さして笑った。
「ここだろ?ここに噛みつけばいいだけだろう?欲しいなら体中の血液全て紫蘭にやる」
 紫蘭はしばらくの間、訳が分からず呆然としていたが、次の達巳の行動を目の当たりにし我に返った。
 ナイフを自分の腕に突き刺した。
「何してるの!!止めなさい!」
 紫蘭が慌てて止めにはいるが、達巳はナイフを抜こうとしない。
 それどころか、更に傷口を開いていった。
「……全部やるって言っただろう?聞いてなかったのか?」
 ある程度傷口を広げると達巳はナイフを抜いた。そこから血が流れる。
「……聞いていたけど……でも、どうして自分を傷つけているの?」
「紫蘭が血を吸いやすいように。早く吸わないと全部なくなるからな?」
 腕から鮮血が流れ、ぽたりぽたりと床に落ちる。
 紫蘭は目の前に突き出された腕をしばらく見つめていたが、やがてそれに腕を伸ばした。
「…………ばか……」

「紫蘭さん!言われていた道具買ってきましたよ」
「ありがとう」
 紫蘭は微笑みを浮かべて道具を受け取った。
「では、修理中はくれぐれも地下室に入らないように。修理が終わり次第連絡に行きます」
 それだけ言うと紫蘭は地下室に消えていった。
 祐也はなんとなく、先程までいた部屋に行った。
「……おかえり」
「……その包帯は?」
 扉を開けた途端にかけられた言葉を無視し、祐也は質問を投げかけた。
「これ?」
 達巳は左腕をあげて見せた。そこには真っ白い包帯が巻かれていた。
「ちょっと怪我したんだよ」
 手首から肘まで巻かれた包帯。青白い顔。とても『ちょっと』という言葉ですまされるようなものではなかった。
「……何やったんだ?」
 達巳の隣に腰を下ろすと祐也はその左腕を掴んだ。
 その途端、達巳の顔が苦痛でゆがんだ。
「痛いだろう?『ちょっと怪我した』じゃないだろう?何したんだ?」
 今までの祐也とは違った。笑顔はない。口調が違う。声のトーンも違う。雰囲気まで違う。
「……お前に話す必要があるのか?」
 達巳はゆがんだ顔で無理矢理笑顔を浮かべた。やせ我慢だ。
 祐也は掴む腕にわずかに力を込め、微笑んだ。けれど、その笑顔は祐也のものとは違った。もっと冷たい。
「話せって言ってるだろう?必要あるかなんてどうだって良いんだよ。早く話せ」
「……いやだ……」
 脂汗を浮かべ、達巳は笑んだ。どれだけの苦痛が伴っているのかはわからない。
「絶対に話さないって決めたんだよ」
 怪我の理由を話せば、紫蘭の正体も明かさなくてはならなくなる。それはできなかった。
 それを話すくらいなら、これぐらいの痛みどうってことないと思っていた。
「……強情だな……」
 深雪は笑顔を消して腕に力を込めた。
「これでも話さないつもりか?」
 声を上げそうになった。それでも達巳は声を押し殺した。もう、笑顔を浮かべる余裕もなかった。
「……言っただろう?絶対に……話さないって……」
 途切れ途切れにそれだけ言うと達巳の意識は遠のいた。
「…………ばか……」
 紫蘭はそう呟きながら達巳の腕に手を伸ばした。
「……何も考えてないのね。食事を抜いたのはたかが数日よ?寿命が異様に長い化け物にとっての数日なんて数時間と同じよ?」
 視線も合わせずに紫蘭は話していた。
 そして、包帯を取り出してその腕に巻いていった。
「これは、あくまでも応急手当よ。ここで出来るのは止血だけ。後で病院に行きなさい。わかった?」
 その行動は達巳にとっては不思議なものだった。
「……傷口の割にはそれほど出血もひどくないし……大した怪我じゃないわね」
「紫蘭は……」
 ようやく重たかった口を開いた。
「俺をどう思ってる?」
 その質問は紫蘭にとってあまりにも唐突だった。
「…………え?」
 紫蘭の青白い顔がわずかに桃色に染まった。
「俺のことをどう思ってるんだ?」
 聞き返しても、達巳からは同じ言葉が返ってきた。聞き間違いではない。
 紫蘭はうつむいたまま口をもごもごさせた。
「……そんなこと言われたって……」
 達巳の耳まで届かない声。達巳はもう一度だけ口を開こうとした。
「紫蘭さん!買ってきましたよ!」
 玄関の扉が開く音と、祐也の声。
 その二つの音を聞いた途端、紫蘭はホッと安心したような顔をした。
「じゃぁ、私は真魚さんの修理をするから。貴方は帰るなり好きなようにしなさい」
 そう言って紫蘭は部屋を飛び出した。
 その部屋に一人残された達巳はしばし呆然としながらら呟いた。
「……返事聞いてないのに帰るわけないだろう……」

「ちょっと!起きなさいよ!こんなところで寝てたら風邪引くわよ?」
 小さな手が達巳の身体を揺すっていた。
「……ん……紫蘭?」
 目を開けると、自分の体を揺すっている紫蘭の姿。
「何でこんなところで寝てるの?」
「あー……なんとなく」
「何それ?」
 達巳の返答に思わず笑みをこぼした。
 その笑顔があまりにも少女らしかった。
「……祐也は?」
 部屋にいたはずの祐也の姿がなかった。部屋には紫蘭と達巳の二人だけだった。
「地下室。真魚さんといる」
 その表現はどこかおかしかった。人形と一緒にいるという表現は。
「それよりも早く病院行きなさいよ?悪化する前に」
 そう言うと紫蘭は部屋を出ようとした。
 達巳は思わずその腕を掴んだ。
「……何?」
 紫蘭が振り向くと同時に達巳は言った。
「返事がまだだ」
 その達巳の瞳がやけに真剣だった。
「……返事?」
「紫蘭は俺のことをどう思っているんだ?」
 紫蘭が言葉を紡ぎ終わる前に達巳は答えた。
「……それは……」
――神様はいるの?
――もしもいるのなら、これは罰なのだろう。

「真魚……君の声が聞きたい……」
 それは叶わぬ願いだろう。人形は口をきかない。
「君と話がしたい」
 祐也の話を真魚はじっと聞いていた。
 ここは人形の館。
 どうしてそんな名前が付いている?
「……人形の館は人形に命を与える」
 どこかで聞いた言葉を口にした。
「真魚……君を人間にしてあげるよ」
 祐也の言葉を真魚は静かに聞いていた。

 朝は近づいてきていたのに。
 近づいていた朝が遠ざかろうとしている。
 なぜだろう?
 それは世界が壊れてきているから?

「…………私は……」
 朝が来ないのは世界が壊れてきているせい?
 返事を返せなかった。なぜなら、この返事を返すことは紫蘭にとって罪なのだから。

 

戻る

第六章