思わず意地悪をしたくなるのも、
からかったりするのも、
それは全部……THE DOLL HOME
―ニンギョウノヤカタ―
〜どうして私は生きているんだろう?〜
好きだから。
「……ひどいものね……」
知らない人の声が聞こえた。
かろうじて意識のあった紫蘭はその声が聞こえていた。
声の主が気になって。その姿を見ようと思い、身体を起こそうとしたときだった。
――どうして、身体が動かないの?
体を動かそうとしても、声を出そうとしても。身体は全く言うことを聞かなかった。
「…………生きているの?」
覗き込んでくる顔。
知らない人だ。
金髪で青い瞳。白い肌。綺麗なお姉さんだなと思った。
「……放っておいたら死ぬわね……」
その人は紫蘭の頬を優しく撫でながら呟いていた。
「…………生きたい?」
返事を返さなきゃと思った。
それでも身体は言うことを聞かず、返事を返すことが出来なかった。
――……痛いよ……苦しいよ……
体中は痛い。息をしようとするとどこかから息が漏れていく感じがする。
紫蘭は今、自分がどんな風になっているかわからなかった。でも、一つだけしっかりとわかっていることがあった。
――楽に……なりたい……
それ以上の願いがなかった。
楽になれればどうでもよかった。
けれど、それを伝えることもできなかった。
「……人間じゃなくなっても良い?」
――楽になれればどうでも良い
――早く助けて
伝えたい言葉は声にならずに消えていった。
その人はしばらく紫蘭を見つめていたが、やがてそっと抱き上げた。
「……死ねなくなるけど……それでも良い?」
紫蘭の返事が返ってくることはなかった。
それを知っていて女は聞くのだろうか?
「……今、楽にしてあげるからね……」
女は紫蘭の首筋に唇を近づけた。
「…………その後が……辛いかもしれないけど……」
小さな小さな呟きをもらすと女は紫蘭の首筋に牙を食い込ませた。
気を失った紫蘭が次に目を覚ましたのはどれぐらい時間が経った後だったのだろうか。
その時にはもうあの女はいなかった。
「…………ゆめ?」
一瞬だけそう考えたが、辺りを見回したときにはもうそんなことどうでもよくなっていた。
「…………おか……ぁ…さん?」
全身が切り刻まれ、血だまりに転がっている母親。
「……お…とぉ……さん?」
体中のパーツが散らばっている父親。
「……な……んで……?」
なのに、自分は無傷。
服は血で真っ赤に染まっているのに傷は一つもない。
「…………なんなの……これ……」
絞り出した声はそれが精一杯だった。
百五十年ほど昔の話。
紫蘭の家族は殺された。
一家惨殺事件とされたが、唯一の目撃者である紫蘭は犯人の顔を覚えておらず、迷宮入りとなった。
「……もぅ……やだよぉ……一人はヤダよぉ……」
この世界でひとりぼっちにされてしまったような気がした。
紫蘭はあの日以来ずっと家の中にいた。
外に出たくない。何も食べる気が起きない。何もしたくない。
絶望の淵に立っていた。
そんな紫蘭を救ったのがただ一人の少年。
「紫蘭」
優しい声が名前を呼んだ。
紫蘭は泣きそうになりながら振り返った。
「……あきら……く……ん」
大切な友達。いや、紫蘭にとっては友達以上の存在だったのかもしれない。青木明。
明は優しく微笑むと紫蘭の頭を撫でた。
「また泣いてたの?紫蘭は泣き虫だね」
紫蘭が絶望の淵から立ち直れたのは明のおかげだった。
あの日から毎日、紫蘭に会いに来た。そして、優しくしてくれた。
その優しさがとてつもなく嬉しかった。
少しずつだが紫蘭は明るさを取り戻していった。
そんなある日だった。
「紫蘭、たまには外に行かないか?すごく天気がいいんだ」
明の言葉に紫蘭は頷いた。
手を引かれるままに紫蘭は家から一歩外に出た。
「っや!」
一歩外に出ただけで肌が焼けそうだった。胸の辺りから何かがこみ上げてきた。気持ち悪かった。
「紫蘭!大丈夫か?紫蘭?」
明が心配そうに顔を覗き込んできた。
「……大丈夫……少し、気持ち悪いだけだから……」
無理に笑って見せたが、気持ち悪さは一向によくなりそうもなかった。
「家の中で休んでた方が良いんじゃないか?寝てろよ?な?」
紫蘭が小さく頷くと明は紫蘭を布団に寝かせた。
「……あきらくん……ごめん、一人にさせてくれる?」
そう言うと明は「わかった」と言って家を出ていった。
明が家を出たのを見ると紫蘭は起きあがった。
「……なんで……外に出ただけで気持ち悪くなるの?」
自分の身体はおかしくなったのだろうか?
どうして?
考えを巡らせているとふと、夢だと思っていたことを思い出した。
「……あの人……」
見たことのない人だったことは覚えている。
あの人は夢の中で何を言った?自分は何をしていた?
「……身体が動かなくて……それで……」
身体が動かなかったのは何故?
本当はわかっているはずなのに、わからない。思い出すことを拒絶しているみたいに。
「……あのとき……私は……」
思い出さなきゃいけないと思った。
「あの時、貴方は血を流して倒れていたのよ」
どこからともなく聞こえた声は知らない声。いや、違う。知っている。忘れない。
紫蘭が振り向くとそこには思った通りの人物が立っていた。
「……あの時の人ですよね?」
そう尋ねると女は笑いもせずに頷いた。
「死にかけていた貴方を生き返らせた女よ」
「……死にかけていた?」
眉をひそめながら紫蘭が聞き返すと女はもう一度頷いた。
「全身を刺されてあれだけの量の血を流せば誰だって死ぬわよ」
言われて紫蘭は思い出す。
そう、夢だと思っていたが紫蘭も刺されたのだ。
まずは、母親が刺された。それを見つけた父が止めに入ろうとした。そして腕を斬られた。最後に、それを目撃してしまった紫蘭を刺した。
「……思い出した……」
自分が刺されたことを記憶の奥底にしまい込み、それと一緒に犯人の顔を忘れていた。
それを思い出してしまった。
「お父さんとお母さんを殺した人……思い出した……」
「……どうするの?」
紫蘭の呟きを聞き女は尋ねた。が、紫蘭は何を聞かれているのかわからず首を傾げた。
「犯人の顔を思い出したんでしょ?それでどうするの?警察に話すの?自分で復讐するの?」
復讐なんて出来るはずないじゃない。紫蘭はただの小学生なのだから。
紫蘭が口を開こうとすると女はそれを遮るように言葉を続けた。
「貴方はもうただの子供じゃないのよ。復讐をするくらいの力ならあるわよ」
まるで紫蘭の心を読んだかのような言葉だった。
でも、そんなことどうでもよかった。
「……ただの子供じゃない?」
「そうよ。だって貴方は私が吸血鬼にしたんだから」
そんなことを急に言われて誰が信じられる?
けれど、紫蘭は信じてしまった。
あの、太陽の下に出たときのだるさ。食欲というものが全くない。全ての疑問が片づいてしまう。
「……復讐……してやる……」
世界に一人きりにされてしまった孤独を。全て一人の男にぶつけよう。それが例え何者であろうと。
男の居所を探すのは難しくなかった。割とすぐ側に住んでいた。のんきなものだ。
夜になり、紫蘭は笑顔を浮かべたままその家の戸を叩いた。戸が開いた瞬間男の顔が恐怖で凍り付いていた。それでも、すぐに笑顔を取り繕って男は紫蘭を家に入れた。
後は簡単だった。
一瞬で全てが片づいた。
男が足下に転がっていた。もう自分では起きあがることも出来ない。
「…………ぜんぶ、アンタが悪いんだから……」
男を見下ろしながらそう呟くと、ふいに物音が聞こえた。
――見られたのか……
見られたのならまた殺さなければいけないなと思いながら、振り向いた。
振り向き、自分の目を疑った。
「……あ…きら……くん?」
真っ青な顔で明は男を見つめていた。
「…………と……ぅさ…ん……?」
紫蘭が耳を疑う前に明は男に駆け寄りながらもう一度言った。
「父さん!!!」
彼は確かにその男を『父』と呼んだ。間違いない。
紫蘭が呆然と明を見つめていた。
明はその時になってやっと紫蘭の存在に気が付いた。
「……しらん?」
少女の名を呼ぶ少年の瞳には涙が浮かんでいた。
――ドウシテ?
「どうして……紫蘭がここに?」
真っ直ぐに見つめられる。心まで見透かされているような気分になる。嘘をついてもバレてしまいそうな気になる。恐かった。
「……わ……たし……」
本当のことを言ったらどう思われる?
そんなことを考えている余裕もなかった。
「……私が……殺し…たの……」
明の顔が驚きと恐怖に染まっていく。
「だ…って……どう…して?……それ…に……こど…もには……そんなこ…と出来な…いんじゃ……」
ここで全てを話しても、彼は信じてくれるだろうか?
こんな嘘みたいな真実を誰が信じてくれるだろうか?
紫蘭は言えなかった。
涙を流すほど好きだった人が殺人鬼だったなんて教えたくなかった。
「……私が殺したの!!!」
紫蘭はそれだけ叫ぶとその家を飛び出し、がむしゃらに走った。
気が付くと、いつもの自分の部屋にいた。泣いていた。
「……ご…めんなさ……い……ごめ…なさ……」
涙と共にこぼれる言葉は謝罪の言葉。
「紫蘭!!」
今一番会いたくて、でも会ってはいけない大切な人の声。
驚いて紫蘭が顔を上げると、明がいた。窓の外に。
木に登っている。ここは二階。木に登りでもしないと窓には届かない。
「……なんで……明くん」
「ここ開けろよ!紫蘭!!」
窓を指さして言う。窓と木は二メートル以上離れている。
「……や……開けたくない……」
紫蘭が小さく首を横に振ると明は大声で言った。
「修理代は出さないからな!」
なんのことかわからず紫蘭が顔を上げると、明は飛んでいた。
木から、窓に向かって。
飛び散るガラスの破片が見える。窓ガラスの割れる音が耳に届いた。
少し、意地の悪い笑顔を浮かべて彼は言った。
「全部、話してもらおうか?」
紫蘭は全てを話した。
紫蘭の家族を殺した犯人が明の父だと、紫蘭はもう人間ではないと、吸血鬼だと。
「……私、化け物なの。人の血を吸わなきゃ生きていけないの。だから、もう私に近づかない方が良いよ?」
笑いながら紫蘭が言うと明は頭を軽く小突いた。
「痛っ!なんで叩くの?」
頭を抑えつつ明を軽く睨み付けると、明は意地の悪い笑顔を浮かべたまま紫蘭の方を見た。
「俺は、紫蘭を一人にしたくないんだよ」
それがどういう意味なのか理解できずに紫蘭は首を傾げた。
通じていないらしいとわかると明はため息をもらした。
「……つまりっ!俺は紫蘭が好きってこと!」
「え?!」
明は真剣な顔で紫蘭を見つめていた。
「紫蘭は、俺のことどう思ってる?」
――私も、明くんのこと大好きだよ
そう言いたかった。
けれど、出来なかった。
吸血鬼になって、もう年を取らなくなってしまった。死ねなくなってしまった。血を吸わなければいけなくなってしまった。
「……嫌い」
俯いたまま小さな声で答えた。
「私、明くんのこと嫌い。大嫌い」
いつか、絶対に傷つけてしまう。人間じゃないのに人間を好きになることなんて許されるはずがない。
恐くて顔を上げられなかった。
けれど、明の声はいつまでたっても返ってこなかった。
恐る恐る顔を上げた。それと同時に音がした。何かが落ちる音。
「………………え?」
紫蘭は慌てて窓まで駆け寄り下を覗き込んだ。
すると庭には明が倒れていた。血を流して。
「明くん?!!」
紫蘭はその窓から飛び降りた。地面にはふわりと降り立った。これも吸血鬼になったおかげだろう。
「明くん!大丈夫?」
明の身体を抱き起こす。明がわずかに反応した。まだ生きているのだ。
「……し…らん……」
「よかった……明くん!すぐに病院に……」
紫蘭が立ち上がろうとすると明は紫蘭の腕を掴んだ。
「……待て…よ……」
明がもうろうとした瞳で紫蘭を真っ直ぐに見つめた。
「……大嫌いな…ら……放っておい…てくれよ……た…た一人の家族…もいなくな…たし、好き…な女に大…嫌い呼ばわ…りされたら……生き…てく気にも…なれない」
紫蘭は泣きそうになった。
明が死にそうなのは自分のせいなのだ。全て。
「……ごめんなさい……」
明を抱きしめたまま紫蘭は呟いた。
「……大嫌いなんて嘘なの……ホントは大好きなの……でも、私……吸血鬼だから……」
一生懸命に言葉を綴る。
その必死さが伝わったのか明は紫蘭の頭を優しく撫でた。
「最後…に……それ…聞け…ただけ……十…分だよ」
明はいつもの笑顔を浮かべていた。いつもと同じ少し意地の悪い笑顔。
「ごめん……せ…かく……きれ…な髪な…のに……血…つけち…まった……」
紫蘭は涙を浮かべて首を横に振った。
「いいの……私、こんな髪嫌いだから」
全体的に色素の薄い紫蘭は『幽霊』と言われていじめられたことがあった。そのせいで自分の瞳も髪も肌も嫌いだった。
明は小さく声を上げて笑った。
どうして朝が来ないと思っているの?
本気で朝は来ないと思ってる?
朝が必要ないの?
……どれも違う。
「でも俺は好きだよこの髪」
私は、朝を迎える資格がないから。
最後まで彼は笑顔だった。
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