声が聞こえる。
遠くから名前を呼ぶ声。
「……、……」
それは、本当に名前?
聞こえない音が、どうして名前だとわかるの?
もしもそれが名前だとして、誰の名前だっていうの?
……自分?
ああ、そういえば、
私の名前は何だっただろう?
1−ようこそ、アリス
「……、アリス」
身体を揺さぶられている感覚。
それがうっとうしく、振り払おうと腕を動かしたけれど、効果があったのはわずかな間だけ。
小さなため息が降ってきたと思ったら、また身体を揺さぶられる。
そのしつこさにうんざりしながら、寝返りを打つ。もう少し寝てても良いじゃない。
「……ん?」
ふいに、ベッドの硬さに疑問を感じた。
硬いベッドというよりも、これは……
「床?!」
飛び起きると、目の前には知らない顔があった。この人がさっきから人の眠りを妨げようとしていたということはわかるけれど……
高校生くらい? なぜか屋内なのにパーカーのフードをかぶっている変な男の子。髪も服も真っ黒なのに、つり上がった目だけは金色に光っていた。
「おはようアリス」
さっきからニヤニヤと笑っている男の子は、童話の主人公の名前を口にした。
念のため周囲を見回したけれど、他に人はいない。部屋が広すぎてわからないけど、少なくとも見える範囲には誰もいない。
「……まさかアリスって、あたしのこと?」
そんな童話の主人公になった覚えはないけど。
けど、さっきからちらちら目に入る自分の服が、覚えのない水色のエプロンドレスなことを考えると……そんな嫌な予感がする。
目の前の男の子の笑顔は、嫌な予感を増幅させる材料にしかならない。
「君以外に誰がいるって言うんだいアリス」
ほら、やっぱり。
「……誰もいないけど、あたしはアリスなんて名前じゃないわよ」
ため息とともに否定の言葉を吐き出すと、男の子は「へえ」と笑った。もうその笑顔やめてくれないかな、嫌な予感しかしないから。
「それじゃあ、君の名前はなんて言うんだい?」
「あたしの名前は、」
出かかっていた言葉が発せられることもなく消えていった。
あたしの、名前は?
知っているはずの、当たり前の言葉が出てくることはなく、代わりに疑問と焦りがこみ上げてきた。
あたしの名前は何?
あたしは、誰?
ここはどこ?
何も、覚えてない?
「答えられないの? アリス」
「……だから、アリスじゃないってば」
言ってはみるものの、本当にアリスじゃないのか自信がなくなってきた。
違うと思うけど、自分の名前を覚えてないんだから、絶対に違うとは言い切れないし……
「君がなんて言おうとも、僕にとって君はアリスだよ」
「何その最初からあたしの否定なんて意味ないみたいな話は」
思わずツッコんだけれども、男の子はまるで人の話を聞いてないみたいに続ける。
「君の意志とは関係なく、この世界にとって君はアリスなんだよ」
ちょっとやばい人なんだろうか。
真面目に話を聞かない方が良いような気がして、てきとうに聞き流しながら、もう一度周囲を見回した。
相変わらず誰もいない部屋。部屋が広いせいで、人がいないと妙に寂しくなる。家具もないからだろうか。それとも、部屋の壁一面にある無数の扉のせいでもあるんだろうか。
「……ん?」
大小様々な大きさの扉を見ていたら、ふいに何かが頭をよぎった気がした。
もっと早く気づいてもよかったはずなのに。ヒントはあったのに。
あたしは、ここを知っている。
たくさんの扉、エプロンドレス、そしてこの名前。
その三つから連想される童話、不思議の国のアリス。
「どうしたんだいアリス」
いつの間に話が終わっていたんだろう。黒髪の男の子が変わらない笑顔で問いかける。
彼は、この世界と言った。
「この世界、ということは……別の世界があるのよね?」
だって、あたしは童話の中の世界なんて知らない。そんな世界、本で読んだことしかない。
あたしの住んでいた世界はこんな童話の世界じゃなかったはずだから。
「そうだねアリス。君はここではない別の世界から来た人間だからね」
それなら少しだけ納得が出来る気がする。
おそらくあたしがアリスと呼ばれる理由は、童話と同じように外の世界から来たから。
ここが本当にあの童話の世界だとすれば、この世界は全部あたしの夢のはず。
そうだとすれば、見覚えのない場所にいることも、知らない服を着ていることも、やばそうな変な人が出てくることも、少しは納得できる。
「アリス、君は元の世界に帰りたいかい?」
少し上から降ってくる声。
様子をうかがうようで、全部見透かしていそうな、そんな瞳で笑っている。
その瞳にひるんだ訳じゃないはずなのに、すぐに頷けなかった。
「……、帰りたい」
……はずなのに。
帰りたいと願うことが当然なのに、言葉がつまってしまう。自分のことなのに理由がわからない。何故か息が苦しくなる。漠然とした不安が胸を押しつぶそうとするような、そんな感じ。
消えそうな言葉に、目の前の男の子は不思議そうに首を傾げた。
「自分が誰なのかもわからないのに、帰れるの?」
「っ、」
夢の中なんだから、目が覚めれば帰れるはず。
けど、それは本当に?
不安が増していくあたしに、彼は笑顔で手を差し伸べた。
「アリス、僕が助けてあげようか?」
真っ直ぐに瞳を見つめながら、はっきりとした声で。
今会ったばかりのあたしを、助けると言った。
「……どうして?」
あたしが覚えてないだけで、本当は会ったことがあるのかもしれない。
自分の名前も覚えてないあたしには、それすらもわからない。
そんなあたしを、どうして?
「簡単なことだよ、アリス」
手を取って笑いながら、彼は優しく、ささやく。
「僕は君のためにここにいる。だから望んでごらん」
それは、誘惑と呼ぶには重すぎる言葉。
「君が望むなら、僕は女王だって殺してあげるよ」
耳元で響く声は、低く、甘く、重く……
「そんなのいらない」
手をふりほどき、わずかに後ろへ退く。
自分との関係なんてわからないけど、本当のあたしのことなんて知らないけど、何も覚えてないあたしだけど。
あたしはそんなことを望まない。
「大体、女王って何よ唐突に」
そもそも、いきなりそんな名前を出されてもピンと来ない。ここが童話のアリスの世界なら、確かに女王がいるだろうけど、まだ見たこともないのに。
そんなことを考えていると、彼はニヤニヤと笑みを深め、そっと手を伸ばす。その手はゆっくりとあたしの頬を撫で、声は優しく響く。
「今はそれでいいよ。でも、君が迷ったときは思い出して。僕の言葉を」
ずっと笑っているせいで、何を考えているのか全然読めない。
「……思い出しても頼まないわよ。人殺しなんて」
そもそも、殺すとか安易に言うもんじゃないんだけど。
なんでこんなやばそうな人が、あたしの夢に出てくるんだろう。あたしも病んでる人だったのかな。
「っていうか、あなた何なの?」
今更過ぎる疑問。
あたしの知っている童話には、全身真っ黒な危ない人は出てこないはず。あたしの夢だから、童話とは色々違うのかもしれないけど。
「猫だよ」
「は?」
どこが? と思ったけれど、夢だしなあ。猫が人の形をしていてもおかしくない、のかなあ?
「……ソウデスカ」
常識的に考えてあり得ないとも思ったけど、目の前の人に常識が通じる気が全くしないので、あきらめた。たぶん、ツッコんでも無駄になる。
「猫なのはわかったけど、あたしは何て呼べばいいの?」
思わずため息が漏れる。
猫に名前をたずねるって、変な光景よね。でも、人の形だし変じゃないのかもしれない。もうよくわからない。
「ノクでいいよアリス」
予想はしていたけど、やっぱり聞いたことのない名前。記憶がないせいか、本当に知らないのか。
「じゃあ、ノク。聞いてもいい?」
「なんだいアリス」
アリスと呼ばれることに慣れてきた自分がこわい……でも、否定してたら話がすすまないし、とりあえずはいいか。
「どうやったら帰れるか知ってる?」
他にも色々聞きたいことはあるけど、今一番必要なことからにしよう。どうして助けてくれるとか、求める答えが返ってくる気がしないし。
それなら、助けてくれるって言葉を信じて、先に進むしかないじゃない。
「そんなの知らないよ」
「……はい?」
念のため聞き返したけれど、返事は同じだった。
「帰り方なんて僕は知らないよアリス」
「待ってよ! さっき助けてくれるって言ったじゃない!」
話が違うと言おうとしたけれど、言葉が出る前に「言ったけどね」と聞こえた。
「でも、僕は帰る手助けをするだけで、帰り方を知ってるとは言ってないよ」
「紛らわしい言い方しないでよったく……」
結局手かがりは何もなし。自分で何か探すしかないのかと、辺りを見回してみるけれど、相変わらず扉が無数に続いているだけ。片っ端から開けていってもダメなんだろうな。だからといって、ここにいても仕方ないんだろう。どうしようか、そういえば童話ではこのとき……
「そうだウサギ!」
急に声をあげても、ノクは驚いた様子も見せないでニヤニヤ笑っている。少しくらい表情変わらないのかしら。
「ウサギがどうしたんだいアリス」
「ウサギを追いかけるのよ!」
童話のアリスはウサギを追いかけて穴に落ちて、不思議の国にたどり着く。そんな国に行きたくはないけど、アリスが目を覚ますのは不思議の国の中での出来事。それなら、同じように不思議の国へ行かなきゃならないんじゃないだろうか。今、夢の中でアリスと呼ばれているあたしは。
放っておいても目が覚めるような気も、少しあるけれど。それじゃあいけない気が、してしまう。
「ウサギを追いかけてどうするんだい」
「それは後で考えるわ」
この変な自称猫がいる時点で、どの程度童話と同じなのかわからないけれど、出来るだけ物語をなぞっていこう。これが意味のあることなのか、正解なのかはわからないけど、今思いつくことはこれくらいしかないから。
「だから、とりあえずウサギを探しましょ!」
そしてもう一度あたりを見回してみて、一気にやる気がそがれていった。
部屋の向こうが見えない上に、人の気配がしない。
あー、童話と違ってウサギいないのかも。そもそも、気がつくとここにいたんだし。ウサギ追いかけてここに来るはずなのに、順番ちょっと違うんじゃない?
考え間違えてたのかもと、肩を落とした。これからどうしようかなあ。
「アリス。そのウサギっていうのは、白い耳をしているのかい?」
「え? まあ、白いウサギだけど? あと、時計持ってるはずかな」
ノクの質問の意味がいまいちわからず首を傾げたけれど、一応童話のウサギの特徴を思い返した。
「それなら見たよ」
「はあ?!」
それならそうと早く言えば良いのにとか、落胆して損したとか、色々言いたくなったけど、ノクはそんなあたしを気にもとめずに言葉を続ける。
「アリスが寝ている間にウサギがこの部屋を通り過ぎていったよ」
「もっと早く教えてよそれ!」
そう反論すると、ノクは「聞かれなかったから」と答えた。
聞かなかったけど、ウサギを追いかけるって言った時点で教えてくれたって良いじゃない。
「それで? ウサギはどこに行ったの?」
やるべきことが見えてきたら、やる気が出てきた。早くウサギを追いかけて、こんな夢から覚めてしまおう。
「ウサギなら、そこの扉から……」
指された扉に駆け寄り、ノクの言葉が終わる前に扉を勢いよく開けた。
扉を開けるとそこは、どこか外に繋がっていたらしい。薄暗い部屋にいた瞳には、青い空と白い光が目に痛かった。目がくらんだまま一歩踏み出すと同時に声が聞こえた。
「危ないよアリス」
「え?」
何がと尋ねるより先に、踏み出した足が落ちた。
予想していた位置に地面がなかった。段差かと思う前に、重さをかける先のない足が、身体が、ゆっくりと落ちていった。傾く視界に、違和感を感じたけれど、自分が落ちているせいだと気づくのには時間がかかった。
気づいたときには、青空にぽっかりと浮いた扉と、その向こうでニヤニヤ笑っているノクの姿が遠くに見えた。
え、これ、やばくないの? 夢だから平気なの? 平気、よね? でも、夢じゃなかったらどうなの? だって、これが絶対に夢だなんて誰も言ってないし。もしかして、もしかしたら、これは現実で……
頭の中がぐちゃぐちゃになっていたとき、遠くに見えるノクの口が動いた気がした。けれど、なんと言っているのかまではわからない。
「女王の国へ、ようこそ。僕らのアリス」
さあ、迎えよう。盛大に。
だってこの世界は女王の国。女王のための世界。女王が作った世界。
女王が望んだ客人だ。
女王が望んだのなら、歓迎しなくては。
客人が望まなくても。
これは、女王のための物語。
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