2−ウサギの望み


 落ちてる。落ちてる、落ちてる落ちてる落ちてる落ちてるうううううううう!
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああ」
 やばくないと思いたいけど、現実だったらこれ絶対ただじゃすまない思ったら、急に怖くなって叫んでいた。
 足下に広がる青空。遠く、でもないところに広がる森。ぽつぽつと並んでいる家屋。向こうには真っ白い城が見える。やっぱり、見たことのない世界。自分の名前もわからないまま、知らない世界で死んだりしたら死にきれない。
 でもこれ、この高さ、ただじゃすまないどころか、絶対死ぬ高さだし。
「て、ちょ、あ、ぶなああああああああああああ」
 近づく地面。人が目視できるくらいの距離。そこで、見えた。自分の落下地点あたりにいる人影が。
 声を上げると、その人影がこちらを見上げた。その表情の変化が見えるくらい近づいてる。今から避けてくれて、間に合うの? や、無理でしょ。
 そして、あたしは、
 道ばたを歩いていた知らない人を巻き込んで、落ちた。
「大丈夫かいアリス」
 とんっという軽い音と共に降ってきた声。
 目の前に着地したらしいノクが、あたしに手を差し出す。あれ、無事なんだ。
「……なんか大丈夫みたい」
 ノクの手を取り立ち上がろうとすると、なんか変なやわらかいものを踏んだ。
 ……そういえば、人を巻き込んだはずだったなあ。
「ッの、メアリ・アン! いつまでも主人を敷いてんじゃねえよ!」
「きゃあ! ごめんなさい!」
 慌てて飛び退くと、落ちてくるときに見た人が倒れていた。やっぱりこの人の上に落ちたらしい。夢の中だから無事だったとは言え、普通に考えたら謝って済む問題じゃないわよね……夢だから普通に考えなくて良いのかしら?
 あたしが踏みつぶした人は立ち上がると、その白い髪をかき上げて、不機嫌そうな紅い瞳でにらんできた。絶対怒ってる。そりゃつぶされてへらへら笑ってても気持ち悪いけど。
「ったく。主人の上に落ちてくるたあ、どういう了見だ? アァ?」
「や、あの……申し訳ないとは思うんですが、あたしも落ちるとは思ってなくて、ですね……」
 しかも、よりによってこんな柄の悪いお兄さんの上に、だなんて……全然予想してませんよ。
「言い訳すんじゃねえよ」
「きゃあ!」
 いきなり三つ編みを引っ張られた。痛い上に、髪がぐちゃぐちゃになってそう。
 慌てて腕を振り払おうとすると、そのまま腕を強引につかまれた。振りほどこうとしても、力が強くてびくともしない。
「テメェはさっさと帰ってやることがあんだろ?」
 それだけ言うと柄の悪いお兄さんは、あたしの腕を引っ張って歩き出そうとした。
 待って待って待って! どこに行くの!
 なんだかあたしのことを知ってる風な口ぶりな気もするけど、でも、あたしこんな人知らないし! ひょっとしたら知ってる人なのかもしれないけど、こんないきなり連れて行かれても困るし!
 どうしようと思ってノクを見上げると、相変わらずニヤニヤ笑ってるし! 助けるとか言ったくせに、何もしてくれないの?!
 そんなあたしの心の叫びが聞こえたのか、ニヤニヤ笑いのまま口を開いた。
「その子はアリスだよ、ウサギ」
「あ?」
「へ?」
 不機嫌そうな表情のまま振り向いたお兄さんは、あたしの顔をまじまじと睨み付けた。怖いからにらまないでください、とは言えない。
 それよりも、今ウサギって言った? 聞き間違いだろうか。でも、人の姿をしている猫だっているんだから、この人がウサギでもおかしくはないのかも。いや、それにしたってウサギって一応お城に仕えてるはずなんだけど、こんな柄悪くていいの?
「……よく似てるが……確かにメアリ・アンよりも馬鹿そうな顔だな」
 散々にらんだ末に、とても失礼なことを口に出した。馬鹿そうって何よ馬鹿そうって。
 言い返そうかと思って睨み付けていると、その頭の上で何かがぴくんと動いた。
 真っ白な髪と帽子に隠れてわかりづらかったけれど、長く白いウサギの耳がたれていた。今動いたのはこの耳か。っていうか、ホントにウサギだったんだこの人。
「さてアリス。ウサギを見つけたけどどうするんだい?」
「えー……」
 個人的にはこんなウサギ追いかけたくないんだけど……っていうか、ウサギなだけで童話で追いかけてたウサギと同じなのかしら。ノクみたいに関係ないウサギって可能性もあるのよね。
「っつかテメェらは他人のことをウサギウサギ呼んでんじゃねえよ。オレにはハイラムっつー名前があんだよ」
 ウサギ改めハイラムは、相変わらず機嫌悪そうな表情で煙草を口にくわえた。煙草を吸うウサギってどうなんだろう。
「ったく。メアリ・アンはいねぇし、変な女は降ってくるし散々だな」
 ウサギ呼ばわりは悪かったかもしれないけど、他人のことを馬鹿そうだの変な女だの言うのは失礼だと思わないんだろうか。なんて言えないけど。
「ハイラムさまああああ」
 これから先どうしようかと考えていると、遠くから駆け寄ってくる声が聞こえた。高い、幼い声。
 けれどハイラムは呼ばれているのに振り向きもせず、煙草を燻らせている。この人、あたしだけじゃなくて誰に対してもこんな態度なのか。
「ハイラムさまあ、やっと追いつきましたあ」
 肩で息をしている男の子が、ハイラムの足下で泣きそうな声をあげた。
 小学生くらいの男の子に見えるけど、また人間じゃないのかなあ。帽子を脱ぐと、若草色の髪が風になびいた。
「ぼくついて行きますって言ったのに、置いて行かないでくださいよお」
「あ? オマエは主人を待たせるつもりなのか?」
 ハイラムが舌打ちをすると、男の子はびくっと肩をすくめた。こんな子供を怯えさせてどうするのよ。
「だ、だって、メアリさんがいないから、お屋敷のこと全部ぼくがやらなきゃならないんですよお……」
 そこまで言うと、男の子はあれっという表情で、こっちを見上げてきた。こんなすぐそばにいるのに、今まで気づいてなかったんだろうか。
「……メアリさんによく似てますけど……ご姉妹ですか?」
「え、違う、けど……」
 はっきり否定するには自信がなかった。真っ直ぐ見上げる瞳から逃げるように、視線をさまよわせる。気まずくて、無理矢理話をそらそうとする。
「それより! 一目見ただけでよく別人だってわかったね。こっちのウサギなんてしばらくは人違いしたまま話を進めてたのに」
「ウサギの言うように、アリスの方が馬鹿な顔だったからじゃないの?」
 ノクがにやにや笑いながら呟いたけど、無視しておいた。黙って後ろにいるかと思ったら、唐突に口を開いて失礼なことを言う。助けるとか、あたしのためとか言いながら、何を考えてるのか相変わらずわからない。
 男の子は不思議そうに首を傾げながら、あたしを見上げていた。
「顔はよく似てらっしゃいますが、メアリさんが着ていた服とは違いますし……何より雰囲気が違うので、すぐにわかりましたよ?」
「ビル。つまり、オマエは俺がその程度のことにも気づかないウスノロだって言いたいんだな?」
 にたりと笑うハイラムに、ビルと呼ばれた男の子は真っ青になった。
「そ、そんな滅相もありません!」
 必死に否定しようと両手を振るものの、上手い言葉が見つからないらしく、あうあうと情けない声を上げるだけだった。その様子をハイラムは楽しそうに眺めていた。これはちょっとひどすぎるなあ。
「そんな子供いじめて何が楽しいのよ?」
 二人の間にはいると、ハイラムはあからさまに眉をひそめて、不機嫌そうな声を出した。こいつホント性格悪いなあ。
「あんだよ? 自分とこの使用人をどう扱おうが俺の勝手だろ」
「はあ?!」
 ハイラムの言い分が腹立たしくて、食ってかかろうと身を乗り出した。
「アリス、ストーップ」
 後ろから肩をつかまれ止められた。何で止めるのよと思いながら見上げると、ノクはニヤニヤ笑いながらハイラムの前に出た。
「僕としては他人なんてどうでもいいんだけど、僕のアリスが納得してくれないからねえ」
 あなたのアリスになった覚えはないんだけど。
 そう思ったけど、口に出したところで聞きはしないだろうから、黙って続きを聞くことにした。
「あんまり使用人で遊ばないでくれないかな? 代わりに、一つくらいなら望みを聞くよ?」
「けっ」
 ハイラムは吸っていた煙草を吐き捨て、不機嫌そうにその吸い殻を踏みつけた。すると、さっきまであたしの後ろでおどおどしてたビルが、びくっと身を縮こませた。
「偉そうに言いやがって。テメェは何様のつもりだ?」
 やばいかも。
 そう思って、おそるおそるノクの顔をのぞき込んだけれど、相変わらずニヤニヤ笑っている。ちょっとは危機感持ってよー! けれどそんな願いはお構いなしに、ニヤニヤ笑いでノクは答えた。
「僕は、アリスの猫だよ」
 さっき『僕のアリス』と言った口で、何矛盾してること言ってるのっていうか、どっちも違うってば!
 心の中でそう叫びながら、ハイラムの反応にびくびくしていた。最初に喧嘩売ったのはあたしだけど、そんなに火に油注がなくてもいいじゃない。
「……っは」
 鼻で笑うような声が聞こえて、思わずハイラムの方を見た。顔を伏せていて、表情はよく見えないけど、口元は笑っていた。笑っていたと言っても、良い意味の笑顔じゃない。嘲笑に近い、悪い方の笑顔にしか見えない。
「……意味わかんねえこと抜かす奴だな」
 低い声が聞こえ、さすがにまずいと思った。謝りたくはないけど、ここは何とか納めなきゃと言葉を探した。
「おもしれぇ。なら、こっちの言うこと聞いたら、そっちの要望も考えてやるよ」
 けれど、それより先にハイラムが嫌な笑みを浮かべたまま言った。とりあえず、まずいことにはならずに済んだの、かな。安心するのは早い気がするけど、なんとか一息つけた。
 すると、ノクがあたしの背中をぽんと押した。
「ということで、任せたよアリス」
「え?」
 何だろうと理解できずに見上げると、いつもと同じようにニヤニヤ笑った。
「ウサギの願いを聞くのはアリスだよ」
「なにそれえええええええ!」
 願いを叶えるって言ったのはノクでしょ? なんであたしが叶えることになってるの? そう訴えても、ノクは平然と返した。
「僕はアリスの代わりに交渉しただけだよ。それに僕がやるとは一言も言ってないからね」
 もう、開いた口がふさがらないっていうか……それでハイラムが納得すると思うの? 向こうだってノクが叶えるものだと思ってるでしょう?
「俺は誰だろうと構わねえよ」
「……もうヤダこのウサギと猫」
 肩を落としてうつむくと、ビルの困った表情が目に入った。
「あの、アリスさん……ぼくのことはどうぞお気になさらずに……その、いつものことなので」
 唯一まともなビルが必死にフォローしてくれる。けど、この場の最年少が一番まともっていうのもどうなんだろう。可哀想というか、なんだか幸薄そうで、放っておけない。
 頭を撫でながら、ビルに「大丈夫」と笑いかけた。こんな小さい子にばっかり苦労させちゃダメよね。
「わかったわ。何でも聞くから、こっちの望みも絶対叶えてよね!」
 威嚇するように睨み付けたけれど、ハイラムはそんなこと気にも止めず、変わらない視線で見下した。
「メアリ・アンを探せ」
 望みは簡潔でわかりやすく、自分のすべきことははっきりとしているけれど。
 後は任せたと言い残してこの場を去ろうとするハイラムの背に、慌てて声をかけた。
「ちょ、待ってよ! 手がかりとかがないと探しようがないわよ!」
 顔――は、あたしに似てるらしいけど。いつからいないとか、最後に見た場所とか、何一つ知らないのに探すなんて探偵でも難しいはず。なのに、素人がヒントもなしに探すなんて無理でしょ。
 そんな不満を込めて睨み付けたけれど、ハイラムは振り向きもせず、ましてや止まりもしない。
「んなこと知るか。っつか、こっちテメェに構ってられるほど暇じゃねえんだよ」
 そういえば、ビルがついていくとか言ってたし、どこかに出掛ける途中っぽかったけど。だからって、こんな無責任な頼み方は許されないわよ。
 食い下がろうと口を開きかけたときに、ビルが慌てたように懐中時計を見た。
「ハイラムさま! 急がないと女王陛下との約束に間に合いませんよ!」
「オマエがトロトロしてっからだろ」
 舌打ちしながらも、急ぐ素振りを見せたハイラムにあたしは思わず聞き返した。
「女王陛下に会うのにそんな格好で行くの?」
「あ? んだよ、文句あんのか?」
 ようやく足を止めて振り向いたハイラムは、顔をしかめていた。
 その姿をもう一度頭から足の先まで眺めたけれど、やっぱり疑問しかない。
 ネクタイに、ベストに、革靴。一見、問題ないような気もするけど、問題しか見つからない。
「だってそれ……よく知らないけど、パンクとか、ゴシックとか、ロックとか? じゃないの?」
 銀色の鎖がきらきらと揺れる。けど、普通の正装はそんなのついてない。
「いいんだよ。いつもこうだし」
「いつも?!」
 それを見て誰も何も言わないってどうなの。どう見てもダメでしょその格好は。確か童話だと女王様って気に入らない人の首をはねるような性格でしょ。気むずかしい人でしょ。なのに、その格好はアリなの。
「……アリス」
 この世界の常識に頭を抱えていると、大人しくしていたノクが声をかけてきた。
「ウサギが行ってしまったけど良かったのかい?」
「え?!」
 驚いて辺りを見回すと、ハイラムの姿はもうどこにもなかった。ぽつぽつと家や木があるけれど、視線を遮るほどじゃない。それなりに遠くまで見渡せるのに、影も形もないってどれだけ歩くの速いの?
「なんで呼び止めておいてくれなかったの?」
「だって僕には関係ないからね」
 悪びれもしないノクの返答に、肩を落とした。ある程度わかってた返事だったけど……こんな手がかりが一つもない状態でどうやって人を探せって言うの。
「……アリスさん」
 ハイラムについていったのだと思っていたビルが、困ったようにこちらを見上げていた。小さいから気づかなかっただけで、ずっといたんだろう。
 そのビルが、視線を泳がせながら言葉を探していた。
「メアリさんのことなんですが、ぼくの知っていることでよければお話ししようと思って……」
 あのウサギの使用人とは思えないほど、良い子だ。これから先、主人に感化されて性格が曲がったりしないだろうか。
「昨日の朝早くから公爵様のところへお使いに行って、それっきりお屋敷に帰ってきていません」
 今が何時なのかもわからないけど、丸一日は経っているらしい。この世界だと捜索願とか出さないのかしら。あたしに頼む前にやることがあるんじゃないかとも思うけど、自分の常識が通用しない世界だとわかってきたので黙っておくことにした。
「じゃあ、その公爵様の家ってどこかを教えてもらえる?」
 ビルは森へと続く道を指さし、道なりに行くと公爵様のお屋敷に着くと教えてくれた。
「ぼく、早く行かないとハイラム様に怒られてしまうので……」
 頭をぴょこんと下げると、森とは反対の道を駆けていった。その遠ざかる背中を眺めながら、ぼんやりと童話を思い出した。
 あの童話には公爵様は出てこない。公爵夫人は存在したけれど、それだけ。そもそも、メアリ・アンも名前だけだったはず。夢とはいえ、童話とは随分違う気がする。
 ちらりと隣に立つノクを見上げた。
 この自称猫が出てきた時点で、童話とは違っていたし……気にすることじゃないんだろう。
「とにかく。ノク、公爵様のところに行ってみましょう?」
「おや、乗り気だねアリス」
 誰のせいでこんなことになったと思ってるの。言おうかと思ったけれど、軽く睨み付けるだけにした。
 あくまでもあたしの目的は『元の世界に帰ること』だけど、そっちを優先するとハイラムとの約束を破ることになるし。ハイラムはどうでもいいけど、ビルを放って帰るわけにはいかない。
「早く終わらせて、さっさと帰りたいもの」
 森へと向かう道を、一歩踏み出しながらこれ以上面倒事が増えないようにと願った。

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