3−公爵家の普通
森の中を道なりに歩いていると、小さな屋敷が目に入った。
屋敷と呼ぶには少し小さすぎるそれが、ビルの言う公爵様の屋敷なのかどうか、疑問ではある。けれど、ここに着くまでそれらしい建物も分かれ道もなかった。
「……にしても、公爵様って言うくらいなんだから、もっとすごいお屋敷を想像してたんだけど……」
よく言えばかわいらしい、悪く言えば……そんな家に、本当に公爵様が住んでいるんだろうか。詳しいことは知らないけど、公爵様って偉い人よね? それなら、もっとどーんと大きなお屋敷に住んでる方が自然な気がするけどなあ。
公爵様のお屋敷らしき家の前であれこれ考えているあたしを放っておいて、ノクは扉を乱暴にノックした。
「ちょっと何やってるのー?!」
慌ててノクを引っ張ったけれど、ノクは不思議そうに笑っていた。
「だってアリスはここに用事があるんだろう?」
確かにそうだけど……ホントにここなのかもわからないのにノックするのはどうかと思うなあ。
恨み言のようにぶつぶつ呟いていると、ノクはにやにやとあたしの腕をひいて玄関へと向かった。
「そんなことを考えてどうするんだい? 急いでいると言ったのはアリスだろう?」
「……」
なんだろう。ノクが正しいことを言うと悔しいんだけど。いつも変なことばっかり言うからかな。言い返せず悶々とするあたしを眺めながら、ノクは何度か頷いた。それから、
勢いよく玄関の戸を開けた。
「何で勝手に開けてるのよーーーーーー!」
珍しくまともだと思ったら、やっぱりまともじゃなかった。返事も待たずに知らない人の家に勝手に上がり込むなんて。
「だって、いつまで経っても返事がないから」
いつまでって言ってもそんなに待ってないでしょ! それに留守なのかもしれないじゃない。鍵が開いてたからそれはないと思うけど。
そんなことを色々言ってやりたかったけど、それよりもまずこの家の人に謝る方が先だ。勢いよく家主の方へ振り向き、謝罪の言葉を発しようとした。
「おやおや、お客様ですか? こんなへんぴな場所までようこそおいでくださいました」
消えそうにか細い声をした、ひょろりとした細すぎる男の人が腰を曲げた。
謝ろうとしていたのに、怒られるどころか歓迎されてしまい、口を開いたままぽかんと目の前の人を眺めていた。誰だろう。公爵様の家なら、執事とかなのかな。
「ここは公爵の家だって聞いたけど、君が公爵かい?」
ノクの不躾な言葉が聞こえて、我に返った。変わらないノクの調子がすごくこわい。この人が本当に公爵様だとしても、言い方が失礼すぎる! もう少し考えて喋ってよ!
目の前の公爵様かもしれない人は、少しも驚きも怒りもせずに、にこにこ笑いながら顔をあげた。顔を伏せていたからわからなかったけど、目がぎょろっとしていて、口が妙に横に大きくて、なんだか爬虫類っぽい顔だった。
「ええ、私がこの屋敷の当主でございます。何か私めにご用でしょうか?」
自称公爵様は、妙に腰が低くて、何て言うか、信じられなかった。そもそも、公爵様本人が来客の対応するのだろうか。
「ちょっとぉー。早くぅー」
屋敷の奥からけだるげな、甘ったるい声が聞こえてきた。どことなく機嫌の悪そうな響き。誰だろう?
「申し訳ありません。少々お待ちください」
公爵様は頭を深く下げると、奥――声のした方へと姿を消してしまった。
気にはなるものの、待てと言われたんだから大人しく玄関で待とうと思い隣のノクを見上げた。つもりだった。
「どこ行くつもりよ!」
公爵様の消えた方へと進むノクを見て、慌てて呼び止めた。放っておくと本当に何をするかわかったもんじゃない。
「どこって見てわからないのかいアリス」
振り向きもせず、止まりもせず。ノクはそのまま奥へと姿を消した。見てわからないんじゃなくて、行くなって意味なのに全然わかってない。
一人玄関に残され、どうしたものかしばらく考えていたけれど、少し遅れてあたしも屋敷の奥へと向かった。ノクを放っておくよりはこの方が、たぶん正解だと思う。
「待ってよノクー」
公爵様とノクの消えた先をのぞき込むと、そこには空になった皿が山のように積まれていた。大げさな表現ではなく、本当に山のように。床やテーブル(だと思う)がほとんど見えないくらい一面に。天井に届きそうなほど高く。どこまでも空の食器ばかりだった。
その食器の山の向こうから声が聞こえた。
「早くしてよぉー。もぉ料理がないじゃなぁーい」
「申し訳ありません。今すぐ用意いたしますので……」
さっきの甘ったるい声と公爵様の声だ。
皿の山をかき分けながら、部屋の奥へ奥へと進む。どの皿も少し汚れていた。こんなにたくさんの食器を洗わずにためてるなんて、一体どれだけ長い間放置しているんだろう。気をつけないと、スカートの裾汚しそうでこわいな。
少し開けた場所に出ると、ノクと公爵様と、知らない女の人がいた。
「んー? 誰よぉその子ぉー」
見下すような瞳で睨み付けられ、居心地の悪さを感じた。勝手に屋敷の奥まで入ってきた後ろめたさも手伝って、上手く言葉が出てこない。
「この子はアリスだよ。公爵夫人」
誰のせいでこんな後ろめたくなってるのかも知らないノクは、いつもと同じ調子で答えていた。何でノクはそんな平然としているの。少しは申し訳ないとか思わないんだろうか。
公爵夫人と呼ばれた彼女は、ふーんと呟くとそれっきり興味をなくしたのか視線をテーブルにうつした。彼女の視線の先には所狭しと並んだ料理の数々。そして両手にはナイフとフォーク。椅子を壊してしまいそうな巨体をわずかに揺らしながら、丸い目を爛々と光らせて料理に手をつける。その隣では公爵様が、空いた食器を重ねたり、新しい料理を運んだりしていた。
「……なにこれ」
二人が本当に公爵夫妻だとしたら、公爵夫妻じゃなかったとしても、異様な光景を前にして、呆然としてしまった。その間にも、公爵夫人は料理を平らげ続け、また新たな食器の山を作り上げる。
「公爵夫人は食事中らしいよ」
的外れな答えを返すノクに、あたしはもう文句を言う気になれなかった。
「この食器の山は?」
「片付ける暇がないからだろう?」
「この家に仕えている人はいないの?」
「みんな料理を作っているんじゃないのかい?」
「どうして?」
ノクは一つ一つ質問に答えてくれる。正解なのかはわからない。疑問の形で返すくせに、妙にはっきりと答える。
「公爵夫人が食べ続けるからだろう?」
言葉の通り、公爵夫人はひたすらに食べ続けていた。一体どれだけ食べるのだろうか。一体いつから食べ続けているのだろうか。空の食器を、どこまで積むつもりなのだろうか。
「早くぅー。もう食べるものないじゃなあぁーい」
テーブルを叩いて、公爵夫人が料理の催促をする。まるで大きな子供のような態度。
「んもぉー。なんにもないなら、あなたのこと食べちゃうわよぉー」
冗談なのか本気なのかわからない言葉。わがまま放題の夫人。
それでも、公爵様は嫌な顔一つしないで料理を運ぶ。
彼は、一体何を思って料理を運び続けているのだろうか。
「お二人とも、申し訳ありません」
料理を運ぶ手を休め、公爵様がこちらへやってきた。公爵夫人の方を見ると、自分の背丈ほどあるケーキに手をつけていた。おそらく、あのケーキを食べ切るにはしばらく時間がかかるだろう。
「公爵様、大変そうですね……」
小さくもらすと、公爵様は優しく微笑んでくれた。
「そんなことはありませんよ」
優しく細めた瞳で、静かに公爵夫人を見つめていた。
冗談でも、料理がなければあなたを食べると言われても、笑っていられる。それは、つまり。
「……ご夫婦仲が、良いんですね」
あたしの言葉に公爵様は少し恥ずかしそうに笑った。
なんだか、うらやましかった。いいなって思った。あたしが何も知らないだけで、公爵夫人が食べ続けているのにも理由があるかもしれない。一部だけを見て勝手に異様だと決めつけるのはいけないかもしれない。
だって、公爵様はこんなに優しい瞳で公爵夫人を見つめるんだから。
「……アリス。外で待っていてくれないかな」
突然口を開いたノクは、あたしの背中をそっと押して扉の方へと向かわせた。
「でも……まだ話も聞いてないのに?」
ここに来た目的は、まだ何も果たしていない。それなのに外に出ろとノクは言う。
何を考えているのだろうと思い、ノクの顔をのぞき込んでみたけれど、いつもと同じ顔で笑っているだけだった。
「僕が聞いておくから。だから、アリス」
有無を言わせない調子で、いつもと同じ笑顔と声で。ノクはあたしの背中を見送った。
意味がわからない。
元々何を考えているのかわからなかったけど、今のノクの態度は本当にわけがわからない。公爵様と話をしていただけなのに、いきなり外に出ていろって。よく考えたら、公爵夫妻に挨拶もせずに出てきてしまった。戻ろうかとも思ったけれど、さっきのノクを思い出すと戻りづらい。
玄関の前に座って、ぼんやり空を見上げてる。木々の合間から、わずかに青い空が見える。
「でも……よく考えるとノクの言うことに従う必要はなかったのよね……」
誰なのかもわからない相手なのに。本当は大切な人なのかもしれないけれど、今のあたしにはその判断も出来ない相手。信じて大丈夫と思うのは、たぶん不用心だ。それなのに、あたしがノクの言葉に従ったのは、ノクを少しでも信じているのは……
「……だって、隣にいてくれるから……」
誰も聞かない言葉を、小さく口に出してみた。
何も知らない世界、誰なのかもわからない自分、全てが不安定でぐらぐらしている。そんなあたしの隣に立っていてくれる。何もわからないあたしにとって、それがどれだけ安心できることか。不安なときにそばにいてくれる存在を、無条件で信じてしまっても仕方ないじゃない。
「そこでなにしてるの?」
鈴の音のような声。考えにふけっていて、人がいることに気づかなかったあたしは驚いて顔をあげた。
そこにはアンティーク人形のようなドレスを着た少女がにこやかな笑顔で立っていた。ビルと同じくらいか、少し大きいくらいの幼い少女。
「そこにおうちがあるのに、入らないの?」
「うん。外で待っててって言われたからね」
すると女の子は笑顔のまま、あたしの前までやってきた。この子を、あたしは知らない、のよね? 自分に問いかけても答えは出てこない。それでも一度問いかけてみる。たぶん、知らない子だと思う。名前を聞いても失礼じゃないよね。
「あたしはアリスっていうんだけど……あなたは?」
言ってから少し後悔した。知らない人にいきなり名前を聞かれて答える子なんていないんじゃないかな。危ない人と思われただろうかと心配したけれど、女の子は声を上げて笑い出した。
「あははははっ。変なお姉ちゃん! 猫に名前を聞くなんて!」
「……猫?」
目の前の少女の言葉を口に出して確認する。この子もノクと同じ猫。けれど、見た目はノクと同じようにただの人間に見える。少女のきらきらとした碧の目はノクのそれとは似ても似つかない。特に共通点は見つからない。
「でも、猫だからって名前がないわけじゃないでしょ?」
共通点探しをあきらめたあたしは、ノクのことを思い出しながら質問した。ノクは自分から名乗ったんだから、猫にも名前に近いものはあるんじゃないだろうか。
ドレスとおそろいのピンクのヘッドドレスから垂れる金色の髪を揺らしながら、少女は高い声で笑った。
ひょっとしたら猫はみんなよく笑うのかもしれない。
「名前なんて人間が勝手に呼んでるだけよ? 猫は『自分とそれ以外』としか思ってないのにねー」
「それじゃあ、あたしはあなたを何て呼べばいいの?」
「そんなの好きに呼べばいいのよ。どう呼ばれたって私には関係ないもの」
笑いながらその場でくるくると回る少女。ふわふわと柔らかく流れる髪。花のようにふくらむドレス。その姿はどう見ても猫には見えないけれど。
「そういえばお姉ちゃん」
何かを思い出したらしく、こちらの顔を見上げるようにのぞき込んできた。
「昨日のお姉ちゃんとにおいが似てるね」
鼻をひくひくさせながら、何となく言っただけなのだろう。けれど、今のあたしにとってはそれはとても大事なことだった。あたしが今探しているのは、あたしによく似た少女。
「そのにおいが似てる人って、顔も似てた?」
あたしの問いに、猫の少女ははっきりと頷く。絶対にメアリ・アンだとは言い切れないけど、同じ顔がここに三人もいるなんて考えたくもないから、メアリ・アンのことだと思いたい。
「その人がどこに行ったかわかる?」
「あっち」
真っ直ぐと森の奥へと続く道を指し、こう続けた。
「いつもお茶会をしている三人のところよ」
もしそのお茶会が童話通りなら。それはいかれたお茶会を続ける三人。
森の奥、見えもしないお茶会を思い描きながら、不安を覚えた。
「お茶会って……」
口に出しながら、少女の方を振り返る。けれど、そこにはきらきら輝く金色の髪はもうなかった。あるのは降り注ぐ陽光と、森の外へと続く小道だけ。少女の姿を探すように周りを見回してみたけれど、人影も見えない。
「アリス」
聞き慣れてきた声。答えるよりも、振り向くよりも先に、腕を引かれる。
首筋に顔を寄せ、小さく、はっきりと囁く。
それらがあまりにも自然で、突然で、驚くこともできなかった。
「……他の猫のにおいがするね」
耳にかかる吐息で、ようやく驚くことができた。
耳を押さえながら振り向くと、いつも通りの笑顔を浮かべたノクが立っていた。
「浮気でもしてたのかなアリス」
「……浮気も何もないでしょ」
相変わらず、何を考えているのかわからない。ひょっとしたら、何も考えてないのかもしれない。その証拠に、ノクは何もなかったかのように森の奥へと歩き出した。
「待ってよ、どこ行くの?」
慌てて追いかけると、ノクは振り向きながらこう答えた。
「メアリ・アンはお茶会に向かったらしいからね」
ノクもあたしと同じ話を聞いたらしい。公爵様に話を聞いたのだから、不思議なことではないけど。
ああ、そういえば、どうしてノクはあたしを外で待たせたんだろう。
そのことを尋ねようかと思ったけれど、少し考えてから言葉を飲み込んだ。たぶん、答えはくれないだろう。なんとなくそんな気がした。そんな人――猫、か――を信じて良いのだろうかとは思う。思うのに、あたしはノクの後ろをついて歩く。
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