6−鏡の中のアリス
次に気がついたとき、あたしは暗闇の中にいた。
ただ、正確に言うとあたしが勝手に暗闇だと感じただけで、暗闇ではなかった。
どこまでもなにもなく、真っ暗な空間が続いているのに、自分の姿は光の下で見ているときと同じようにはっきりと見ることができた。
「……どこ、ここ……」
いい知れない不安を感じてつぶやいた声は、かすれてうまく出なかった。
それでも、心臓の音が聞こえそうなほどの静寂のなかでは、響いて聞こえた。
不安を振り払おうと発した声で、余計に不安が増していく。
「ようこそ、アリス」
笑みを含んだ声に、心臓がどきりとした。
聞いたことのあるような、知らない少女の声が、背後でくすくすと笑っている。
胸を押さえ、ゆっくりと振り向くと、そこには見覚えのある姿があった。
闇に溶けそうな黒いエプロンドレスに、色素の薄い髪をふたつにまとめた少女。その顔には笑顔が浮かんでいた。
あたしを鏡の中に引きずり込んだ、鏡の中のあたしが浮かべていた笑顔を。
「あなた……だれ?」
背筋が寒くなる。
あたしと違う表情を浮かべる少女は、明らかに鏡ではない。それなら、あたしと同じ顔だというこれは、なんだというのだろう。
「誰、だなんて……ずいぶんひどい言いぐさね。アタシを探しにここまで来たんじゃなかったの?」
小馬鹿にするような笑みを浮かべる少女の言葉で、あたしはひとつの結論に思い当たった。
「……あなたが、メアリ・アン?」
あたしにとてもよく似た顔だと聞いた。その少女を探すために、公爵家にお茶会に城とたどってきた。
けれど、これは、似ているどころではない。
こわばった顔のまま、少女――メアリ・アンの顔を見つめていると、その笑みがいっそう深まった。
「正解だけど、残念ながら満点じゃないわ」
メアリ・アンはゆっくりと手を伸ばして、あたしの頬にふれた。
ふれた手が氷のように冷たくて、鳥肌が立った。
「アタシはもう一人のあなた。もう一人のアリスよ」
笑みを浮かべるメアリ・アンが、ただただ気持ち悪かった。
はっきりと違和感を感じているのに、その理由がどうしてもわからない、そんな気持ち悪さ。
冷たい手がそっと頬を撫でる。
「元の世界に帰りたいと望むのがあなた。それを望まないのがアタシ。アタシはあなただけど、あなたと正反対なのよ」
ふるえて上手く声が出ない。
たとえ声が出たとしても、あたしは何を言えたのだろうか。
不安と、気持ち悪さと、恐怖と、自分の知らない感情が入り混じって、あたしを飲み込んでいく。
何もない場所で、自分と同じ顔をした少女が、もう一人のあたしだと名乗る。
「つまり、あなたが忘れたアタシ達のことも、アタシは覚えているの」
こんなおかしな状況で、自分が誰なのかも忘れたあたしに、何ができるというのだろう。
メアリ・アンの言葉が嘘か本当かを判断できるほど、あたしは知らない。
けど、もしも本当にメアリ・アンがあたしなら。あたしの知らないことを、すべてを覚えているのなら。覚えている上で、あたしと別のことを望んでいるのなら。
あたしは、望みを間違えているってことなんじゃないのかな。
首筋を冷たい手が撫でる。
「……ねえ、何も知らないあなたよりも、すべてを知っているアタシのほうが、本当のアリスなんじゃないかしら?」
そしてメアリ・アンは、アタシは、あたしの首に手をかけて、にっこりと微笑んだ。
「あなたは必要ないんじゃないかしら?」
あたしの首にかけた手に、力が込められた。
あたしが間違ってるんだったら、ここであたしが消えることは正しいんじゃないか。そんな考えが頭をちらついて、上手く抵抗できない。
それでも、息苦しくて、もがくように、助けを求めるように。あたしの手は、アタシに触れることもなく、宙をかく。
だってアタシがあたしだとしたら、あたしは何なの。
今、必要ないと言われて、消えそうになって、そのことを受け入れそうになって、それでも、心のどこかでそんなの嫌だと助けを求めているあたしは。
自分に否定されて苦しんでるあたしは、どうすればいいの。
「望めば良いんだよ、アリス」
何もつかめなかったあたしの手を、温かく包んで、いつもの声で、はっきりと答えてくれた。
本当に、突然ひょっこり出てくるんだから。
「……ノク」
首にかけられていた手から力が抜け、その場に崩れ落ちたあたしを気遣うように、ノクが隣で身体を支えてくれた。
「どうやってここまで来たの?」
メアリ・アンが笑みを浮かべたまま、けどどこか緊張をはらんだ声で尋ねた。
それでもノクはいつもと変わらない調子で、当然のように答えた。
「僕はアリスのためにいるからね」
答えになってないような答えでも、メアリ・アンは納得したように目を伏せた。
あたしの知らないなにかを知っているから、その答えの持つ意味がわかるのかもしれない。
メアリ・アンはまっすぐにノクを見て、こう問いかけた。
「でも、わかってるわよね? アタシもアリスだってことを」
ノクは、アリス――あたしのためであり、メアリ・アンのために。
おそらく、メアリ・アンはノクがあたしをかばうのがおもしろくない、というか腑に落ちないのだろう。
口元をゆがめて、きれいとは言い難い笑みを浮かべて、メアリ・アンは問いかけた。
「ノクはアタシのものでもあり、アタシの願いも叶えてくれるのよね」
それは疑問というよりは確認だったのかもしれない。
どこか当然だという自信を感じた。
「そうだね、君もアリスだからね」
そして、ノクはその当然を受け入れた。
あたしだけが置いてけぼりなやりとりを、あたしを無視したまま続ける。
「君が望むなら、僕は女王だって殺してあげるよ」
聞き覚えのある言葉。
それは確か、出会ったばかりのノクの言葉。
今もう一度聞くと、あのときと重みが違う。
今のあたしは女王を知っている。見ず知らずの誰かを殺してあげると言われてるのではなく、人を寄せ付けたがらないあの少女を殺してあげると言われているのだ。
それと同時に、さっきあたしを殺そうとした少女に、誰でも殺してあげると言っているのだ。
全身に鳥肌が立った。
あたしの理解が追いついたことに気づいたのか、メアリ・アンはあたしを見て微笑んだ。
「ねえ、ノク。その偽物のアリスを殺してくれる?」
自分こそが本物だと言外ににおわせ、あたしを殺せと命じた。
殺されても仕方ないのかもしれないと思ってた。だって、あたしは何も知らないから。すべてを知っているもう一人の自分に殺されるのなら、仕方ないと思ってた。
でも、やっぱり、嫌なの。
ノクは望んで良いと言ったじゃない。
だから、あたしは望む。
「死にたくない……」
小さな望みは、望めと言ったノクの言葉でかき消された。
「偽物を殺す、それが君の望みなんだね」
ノクは一歩メアリ・アンに歩み寄り、彼女の望みを反芻する。
その場に残されたあたしは裏切られたような気分になった。でも、そんな気分になるのも間違ってるのかもしれない。
偽物の望みよりも、本物の望みを叶えるのが当然なんだろう。
「そうよ。やってくれるわよね」
でも、偽物かもしれないあたしだけど、願いは本物だと思うの。
なにもわからないけど、本当に、死にたくないって思っているの。
「それが君の望みなら」
強く願うように、祈るように、目を閉じた。
死ぬ覚悟なんてなかった。未練をもてるほど、自分のことはわからないけど。だからって死にたいわけじゃない。
「……え、なんで?」
耳にメアリ・アンの呆けた声が届いた。
続いて、重たい物が床に落ちたような音が聞こえた。
そして、いつまで待っても痛みも苦しみも来なかった。
「……ノク?」
不思議に思い、そっと目を開けると、ノクがいつもの笑顔でのぞき込んでいた。
「何をしているんだい、アリス」
「……そっちこそ何してるの?」
あまりにもいつも通りでなんだか拍子抜けしてしまった。
「あたし、殺されるんじゃないの?」
間の抜けた質問だとは思うけど、さっきまで「殺す」と言ってたとは思えないほどいつも通りだったから。
「アリスこそ何を言っているんだい?」
ノクは心底不思議そうに首をかしげた。
どんな望みでも叶えると言っていたけど、さすがに人を殺すというのは嘘だったのかもしれない。
安心はしたけど、それなら最初から「女王だって殺す」だなんて言わなければ良いのに。
あたしの口から文句が出るよりも先に、ノクが言葉を続けた。
「僕は偽物を殺すって言ったんだよ」
理解が追いつかなかった。
メアリ・アンはあたしを偽物と呼んだ。そして、偽物を殺せと言った。だから、あたしは殺されると思った。
でも、そういえば、ノクはあたしのことを偽物だとは言っていない。
じゃあ、ノクにとっての偽物って、だれ?
ノクの後ろには闇が広がっていた。
その闇に溶けるような黒いエプロンドレスが、静かに倒れていた。
「……あなたにとって、誰が偽物で、誰が本物なの?」
答えはすでに見て取れた。それでも、言葉が口をついた。
「アリスはどうして自分が偽物だと思ったんだい?」
はぐらかすような質問に、それでもあたしは答えた。
「だって、あたしは何も覚えてないけど、メアリ・アンは全部覚えているから……」
どちらもあたしで、違いは記憶があるかないかなら、記憶がある方が本物だと思った。
「僕にとっては、記憶の有無なんてどうでもいいよ」
ノクはあたしの考えを否定する。
「僕の知っているアリスが、本物のアリスだ」
「……あなたの知っている、あたし?」
あたしはノクのことも覚えていない。だから、ノクの知っているあたしもわからない。
「だから、僕にとっては君が本物だよ」
それでも、ノクはあたしを、あたしの存在を認めてくれた。
その結果が、もう一人のあたしを殺すことだったとしても。
「だけど、君も今のままじゃダメだよ」
ノクはあたしの手を取りながら、言葉を続ける。
「君は今『死にたくない』と望んだけど、それじゃあダメだよ。それじゃあ君は帰れないし、僕も君を認められない」
「……じゃあ、やっぱりあたしは偽物なの?」
何が嘘で何が本当で、何が本物で何が偽物なのか、わからなくなってきた。
「いいや、本物だよ。君はアリスだ」
いつもとは違うけど、やっぱりわかりづらい言葉。
ノクが何を言いたいのかわからなかった。
「君の思い出したかったこと、帰り方も全部、もうすぐ思い出すよ。でも、今の君だと帰ることができないんだ」
「……じゃあ、あたしはどうすればいいの?」
帰れるけど帰れないと言われ、ようやくそれだけの疑問を口に出せた。
でも、なぜもうすぐ思い出せると言い切れるのか、口に出せなかった疑問もたくさんあった。
「とりあえず、これをあげるよ」
言いながらノクは手のひらに一枚のカードを載せた。
「……スペードのエース?」
それは何の変哲もない一枚のトランプに見えた。
力を込めれば簡単に折れ曲がりそうな、貧弱なカード。
「それに代わるカードを探してごらん。もしくは……」
具体的なようで、実際には何をすればいいのかわからない曖昧な答え。
それに続く言葉も、同じようなものだった。
少なくともあたしにとっては。
「『死にたくない』ではなく、『生きたい』と望めるようになること」
そう言って、ノクはあたしの手を軽く引っ張った。
瞬間、目がくらみそうな強い光を感じて目を強くつむった。
ねえ、メアリ・アンを偽物と呼び、
自分は本物のアリスを知っていると言い、
記憶がもうすぐすべて戻ると教え、
あたしの手を引くあなたは、
もう一人のあたしを殺したあなたは、本当に誰なの?
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