5−城の少女
お伽噺に出てくるような、という言葉が一番わかりやすい気がする。まさにそんなお城が目の前にそびえていた。
ただ、お伽噺から想像されるような、きらきらとした輝きはなぜか感じられなかった。
夢と現実の違い、みたいなものだろうか。
「いつまでそんなところで立ち止まってるつもりだい、アリス」
城を見上げて呆然としていたあたしに、ノクはいつもの笑顔で問いかけた。
そんな「いつまで」って言われるほど長い時間じゃなかったと思うんだけど。
「……あれ? ハイラムは?」
文句を言おうと思ってノクに視線を向けると、ここまで案内してくれたハイラムの姿が消えていた。
「アリスが動かないから、置いて行かれたんだよ」
「……ごめんなさい」
自覚はなかったけど、結構な時間、城を見上げて止まっていたらしい。
でも、お伽噺のようなお城なんて初めて見るんだから、ちょっとくらいあっけにとられたって良いんじゃないかと思う。
あたしが悪いのは認めるけど。
「まあ、それはどうでもいいんだけど」
あたしの謝罪はばっさりと切り捨てられた。
不満を口にしようと顔を上げると、いつもと違う金色の瞳と目があった。
いつもと同じ笑顔だけど、瞳が真剣で、思わず言葉を飲み込んでしまった。
「それで、アリス。どうするんだい?」
「え? どうって?」
唐突に投げられた疑問に首をかしげた。
質問の意図もわからないが、どうするもなにも、城に入る以外に何があると言うんだろう。
「うん、なら良いんだ」
こちらの問いかけには答えず、ノクは勝手に納得していた。
その瞳にはもう真剣さは見えず、いつものつかみ所のないそれだった。
「じゃあ、開けるよ、アリス」
大きな扉に手をかけながら、ノクは珍しく、あたしに確認をした。その意図さえ、あたしにはわからなかった。
だから、あたしは、ただ何も考えずに、頷いた。
扉の向こうは、外観から想像した通り、高い天井に、豪華なシャンデリアといった、お伽噺そのものだった。
ただ、少し薄暗く感じた。
灯りも点っているし、窓から陽も差してるはずなのに、どこか薄暗い。
その薄暗い中に、真っ赤なドレスの少女が立っていた。
「……ようこそ、アリス。お待ちしておりました」
囁くような声がなければ、人形だと思ってしまったかもしれない。それくらい、彼女はどこか作り物じみていた。
つややかな黒髪も、どこか寂しげな瞳も、初めて見るはずのその顔に、なぜか違和感を覚えた。
「私がこの国の女王です。メアリ・アンの元へ案内します」
こちらの反応も待たずに、女王と名乗った少女は静かに歩き始めた。
「……あ、待っ……」
慌てて追いかけようとした途端、女王は振り向いて、手に持っていたものを構えた。
さっきまでと変わらない、淡々とした声で、表情も変えず、けれど鋭い視線で。
「すみません……それ以上は近づかないで」
彼女の身の丈よりも大きな、死に神のような鎌を突きつけられ、あたしは頷くことしかできなかった。
女王は視線をそらし、鎌をおろして、また何事もなかったように歩き出した。
「この距離さえ保ってくれれば、決して傷つけないので……」
振り向かずにつぶやかれた言葉に従って、あたしは鎌の届かない距離を保ったまま、女王の後ろをついて行った。
傷つけたくないなら、鎌なんて持たなければ良いのに、そんな言葉が喉の奥に消えていった。なぜ口に出さなかったのか、自分でも不思議だった。
「女王は、あの鎌で人を殺したんだよ」
背後から耳元に囁かれる声。
背筋がぞわりとふるえた。
悪意があるわけでも、善意があるわけでもなく、ただ事実を告げるだけ。いつもと同じ笑みを含んだ声で。
「彼女は自分の手で……」
不自然に止まる言葉。
きっとあたしはそれを、この続きを聞かなくてはいけない。
なぜか、そう思った。理由のわからない感覚。でも、それ以上に。
あたしは耳をふさいで、その場にうずくまって、きつく目を閉じた。
どうしても知りたくない。聞きたくない。わかりたくない。
「やっ……」
拒絶の声を上げても、事実を告げる声が淡々と続く。
「最愛の人の首を、はねたんだよ」
「――うるさいっ!」
事実をかき消すように声を張り上げた。
そんなことをしても、その事実が消えるわけないのに。叫んだって、言葉は耳に届くのに。
それでも必死に聞こえないふりをしようと、耳をふさいだまま、動かずにいた。
「……あの、大丈夫ですか?」
ふさいだ耳に届く声は、少し離れたところから、けどこちらを気遣うような、そんな響きだった。
そっと顔を上げると、一定の距離を置いて、女王がこちらを見ていた。
目が合うと少しきまずそうに、鎌を胸に抱いて、言葉を続けた。
「突然うずくまって、声を上げたので、何かあったのかと……」
鎌を抱える姿は異様だけど、そこを除けば、ただ他人の心配をする少女の姿だった。
そのことになんだか肩の力が抜けて、気の抜けた笑顔を浮かべた。
「なんでもないんです。ただ、ちょっと変な話をされて……」
そうだ、元はと言えばノクが変な話を始めたから、と思って、ちらりと後ろを睨んだ。
そんな様子を、女王はとても不思議そうな表情で眺めていた。
あたしもとても不思議だった。
「……誰に、ですか?」
あたしの後ろには誰もいなかった。
そのことがしばらく理解できなかったけれど、少し頭が働くようになったら、すぐに納得ができた。
自分勝手な猫だから。あたしに変な話を教えて、反応を楽しんで、ふらふらとどこかに行ってしまったんだろう。それで、忘れた頃にまた戻ってくるんだろう。
猫なんて、気まぐれな生き物だから。
「ちょっとどこかふらふらしてるんだと思います。そのうちひょっこり現れるので、あんまり気にしないでください」
あたしの言葉に女王は腑に落ちない表情をしていたけど、「それなら」とまた歩を進めた。
女王が何が腑に落ちないんだろうと思ったけれど、少し考えればすぐに思い当たった。当たり前のことなのに、気づかなかったなんて、あたしもぼーっとしてる。
自分の家の中を知らない人がふらふらしてるなんて、気持ちの良い話じゃない。それなのに「気にしないで」なんて。それは腑に落ちないな、と考えていて、ふと気づいた。
この城の中で、女王以外の人を見ていない。
そもそも、女王が道案内なんて、常識的に考えておかしいんじゃないか。けど、この国に常識を求めて良いのだろうか。
「この城には、女王以外の人っていないんですか?」
けど、常識的に考えなくても、この城に一人だということは、いくらなんでもないだろう。
振り向きも、立ち止まりもせず、女王は答えた。
「いますよ。メアリ・アンを待たせていますし、ハイラムも執務中です」
「そう……」
はぐらかすような答えに、なんとなく踏み込まないほうが良いのかもと思って、それ以上聞くことをやめた。
けれど、ただ無言で歩くことにも耐えられず、別の話題を探した。
「そういえば、メアリ・アンってどうしてここに来たんですか?」
よくよく考えれば、主人だというハイラムの職場に来ていることを、ハイラムさえ知らなかったというのは不思議だ。
不思議と言えば、どうして女王は名乗ってもいないあたしの名前を知っていたんだろう。
疑問が一つ二つとわき上がる。
あたしに女王は「お待ちしておりました」と言った。あたしが来ることを知っていた。
用件も言ってないのに、メアリ・アンのところへ案内すると言われた。
いいや、先に来たハイラムが教えただけかもしれない。
けど、メアリ・アンの居場所をハイラムはもう知ってるんだから、わざわざあたしが会う必要はないんじゃないの?
ハイラムに頼まれて探していただけで、あたし自身にはメアリ・アンに会う理由なんてない。
「アリス」
女王の静かな呼び声で、我に返った。
いつの間にか曲がり角に差し当たったらしく、目の前には大きな鏡がそびえ立っていた。鏡に顔面からぶつかるところだった。
そう、鏡に。
「……え?」
あたしは改めて鏡に向き合った。
あたしが右手をあげれば、鏡の中でも左手をあげる。水色のドレスの裾をつまんでみれば、鏡の中でも水色がひらひら揺れる。首をかしげれば、鏡の中でも三つ編みがはらりとこぼれる。
鏡の中と視線があったまま、お互いを指さした。
何の変哲もない鏡。
「これは、誰?」
ただ、鏡にうつるあたしの顔は、あたしの顔ではなかった。
けれど、女王は淡々と告げる。
「鏡にうつっているのは、紛れもなくあなたですよ。アリス」
これが、あたし?
この世界で鏡なんて見なかったから、自分の顔がこんな形だとは思ってなかった。
ただ自分の顔も忘れてるだけかもしれない。そう思って納得すればいいのに、どうしても違和感がぬぐいきれない。
これは絶対にあたしの顔ではない。
自分の顔を思い出せなくても、これじゃないという確信だけはあった。
けど、あたしはこの顔を知っている。
鏡に映った顔をもっとよく見ようと、何かを思い出そうと、鏡にふれた。
そこが、小さく波を立てた。
「な、」
気づいたときにはもう遅く、あたしは鏡の中に引きずり込まれていた。
そのとき目があった鏡の中のあたしは、笑っていた。
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