| 「待てって言ってるだろ！」 思ったよりも廊下が混雑していて、結局追いついたのは校門を出てからだった。 亜緒は掴まれた腕を、眉をひそめながら見ていた。 「……人と話、したくないんじゃなかったの？」 静かに言い放たれた言葉に、勇は素早く返した。 「したくないとは、言ってないだろ」 掴んでいた腕を放し、勇は亜緒の隣を歩き始めた。 「校内で俺と話をすると、浮いた存在になるってだけだ」 「ふーん……じゃぁ、貴方は私を浮いた存在にしたいってこと？」 「別に。ってか、俺がいなくても、お前絶対浮くだろ？」 今日一日、亜緒を見ていた。 別に意図してずっと見ていたわけではなく、隣の席だから自然と目に入っただけだ。 見ていて、思った。転校初日と言う事を差し引いても、おかしすぎる。 クラスメイトに言われても、まだ勇と言葉を交わしたせいか、隣にいる勇が起きているせいか、誰一人として亜緒に近づこうとしない。 それは、仕方ない事としてもおかしい。 授業の合間の休み時間もただまっすぐ前を見て席に着いている。 授業中教師に「わからないことは？」と聞かれても「ありません」と即答するくせに、問題は何一つ解けていない。むしろ、ノートを取っている様子もなかった。 亜緒は、ただそこにいるだけだった。何をするわけでもなく、ただいるだけ。 「浮いても構わないもの」 亜緒はさほど興味なさそうに言葉を返してきた。 けれど、勇の目に映る亜緒は、『浮いても構わない』と思っているのとは少し違うように見えた。 違うのなら、何だと聞かれると、言葉に詰まるのだが。 「……それよりも、何の用？ それとも用もないのに呼び止めたの？」 「え、いや……」 用がないわけではない。 改めて用は何かと聞かれると、妙に言いづらくなる。 言い淀んでいると、亜緒の口からため息が漏れるのが聞こえた。 「あ、そうだ。大空、まだ引っ越してきたばっかだろ？ 送ってってやるよ」 言いづらいからと言って、いつまでも何も言わずに突っ立っているわけにもいかず、勇は適当な理由をつけて、亜緒の隣を歩く事にした。 「別に送ってくれなくて良いわよ。家までの道くらい覚えたもの」 「……ちょっとは人の好意に甘えろよ」 勇が呆れたように言葉を返すと、亜緒は馬鹿にでもするように口を開いた。 「自分から人と距離を置いて、好意とは縁遠い世界にいる人に言われたくない」 「……かわいくねぇ……」 思わずため息混じりにそう呟くと、「可愛くなくて結構よ」と返ってきた。ますます可愛くないと思った。 間違いなく、可愛くないと思った。事実、柔らかそうな穏やかそうな外見とは異なって、言動の一つ一つが人を遠ざけようとしている感じがする。 それなのにも関わらず、何故か勇は、離れようとは思えなかった。 「……大空ってさぁ……」 そう声をかけたときに振り返った亜緒の瞳が、まっすぐに勇を映していた。 「なぁに？」 か細い、けれどはっきりとしたソプラノが聞こえた瞬間、尋ねようと思っていた言葉が出なくなった。 いや、正確には、聞く必要がなくなった。 人とどうして距離を置こうとしているのかと思った。そんなに人が嫌いなのかと思った。けれど、まっすぐに勇を映す亜緒の瞳を見て、なんとなく、わかった気がした。 それは、なんとなくだったけれど、勇の中では妙な確信があった。 「……なに？」 いつまでも黙り込んでる勇に痺れを切らしたのか、亜緒はもう一度問うた。 訝しげに眉をひそめながら。 「……ぁー……」 ここで「何でもない」と答えたら、また機嫌を損ねるのだろうと予想はつく。 かといって、聞こうと思ったことの答えは自分の中でなんとなく出てしまった。 それに、尋ねてもおそらく答えてくれないだろう。 それなら、何と言うべきか。 勇があれこれ考えている間に、亜緒の機嫌は悪くなっていったらしい。 「……貴方、さっきから何がしたいの？」 「！ そう。それ！」 亜緒の一言で、勇は何かひらめいたらしい。 「さっきから何で『貴方』って呼んでんの？」 まるで人の名前を知らないかのように、『貴方』『貴方』と言う。 機嫌を損ねずに尋ねられる質問だろうと思いながら、勇は頷いていた。 「……貴方の名前、聞いてないもの」 「…………言わなかったっけ？」 そう言われてみれば、名乗った記憶がない。 「けど、大空も聞かなかっただろ？」 「知らなくても良い事だから、聞かなかったのよ」 「知らなくて良いって……」 何でもない事のように紡いだ言葉は、何でもない事ではなかった。 「俺の名前は、佐伯勇だ！ 覚えとけ！」 知らなくても良い事かもしれない。確かに、そうかもしれない。 そうは思ったけれど、勇は自分の名を口にした後、続けて言った。 「覚えておいて、得はないかもしれないけど、損はないからな。だから、覚えとけ！」 勇の言葉に何を思ったのか、亜緒はしばらくの間考えていたが、やがて小さく笑った。 「……それじゃぁ、損があったらどうするの？」 「だから、ないって言ってるだろ」 「もしも、あったら？」 珍しく食い下がってくる亜緒に違和感を感じながらも、もしものことを考えた。 「……そうだな。もしも、本当に損したって言ったら、一つだけ言う事聞いてやるよ」 まるで子どものような言葉。 そんな『もしも』が来るとは微塵も思ってはいなかった。 勇の様子に、亜緒は口元に手を添えながら呟いた。 「ふー……ん」 小さく笑みを浮かべながら何か考えているようだった。 何を考えているのか、全く読めない。 「……なんだよ？」 「何でもないわよ。精々、損させないように頑張ってね？ 佐伯くん」 そのとき、初めて、亜緒は、真っ直ぐ勇の瞳を見て微笑んだ。 あまりにも真っ直ぐに見てくるから、思わず勇は目をそらしてしまった。 それが悪かったのかと思うようなタイミングで、亜緒は呟いた。 「……ごめん。ここで……さよならっ！」 その声は、妙に緊迫していた。 声が急に変わってくれたおかげで、勇も、すぐに反応できた。そこまでの変化がなければ、すぐには反応出来ず、追いかけられなかっただろう。勇は、逃げるように駆けだした亜緒をすぐに追いかけた。 二人の距離はそれほどなく、追いつくことは不可能ではない。 「待てよ大空！」 あと一メートル 「ついてこないで！」 あと五十センチ 「なんでだよ！」 あと十センチ 「何でも良いから……っ！」 勇は力任せに亜緒の腕を掴んだ。 「……追いついた」 「離して……」 つかまれた腕を振り解こうとするが、そう簡単に振り解く事は出来ない。仮にも亜緒は女で、勇は男なのだから。そこに力の差があるのは当然だった。 「……何で逃げるんだよ」 いきなり、理由もわからず逃げられては堪ったものではない。 腕を掴んだまま問いつめると、亜緒は視線を逸らしたまま消えそうな声で呟いた。 その言葉は、消えてしまいそうなのにもかかわらず、はっきりと響いた。 「……死にたくないなら、すぐにここから消えて……」 「……あいにくだけど、そう簡単には俺も死なないんだよ」 ――そう。そんな簡単に死ねるのなら、こんな思いはしなかったのかもしれない 「そうじゃなくて……」 亜緒が更に何かを言おうとしたとき、勇の背後から声がした。 「やっと止まってくださいましたね。あまり、手間をかけさせないでいただけません？」 「?!」 後ろを振り向くと、そこには一人の女がいた。 普通の女が立っているのなら、それほど問題ではなかった。 どちらかと言わずとも、美人に分類される顔立ち。白金の髪、碧の瞳。それから、まるでゲームか何かから抜け出してきたような妙な格好。それから、もう一つ。 目の前の女は宙に浮いていた。 その女は、優しげに微笑んで、丁寧に頭を下げた。 「お初にお目にかかります。私、ティエラ＝ユーゼリアと申します」 状況を飲み込めないでいる勇をかばうように亜緒は一歩前に出た。 「余程の事情がない限り、こちらの世界に来る事は許されていないはずですよ。何の用ですか？」 真っ直ぐ前を見据え、はっきりと言葉を紡ぐと、ティエラは顔をゆっくりと上げた。 「お命を頂戴いたしたく参りました。姫様」 笑顔は消えていなかったが、その口調は静かな殺気を発していた。 勇はこれが現実なのかわからなくなりかけていた。そのとき、亜緒が小さく耳打ちした。 「離れてて」 それから、亜緒は一歩だけ前に出た。 けれど、勇はその場から離れられないでいた。 離れられない、と言うよりも、離れない方が良いような気がして、離れなかった。 一方、亜緒は小さく言葉を紡ぎながら、手を前につきだした。 「我が願いを聞きたまえ……今一時、我らを時空の狭間へ！」 一瞬辺りが歪み、暗くなったと思うと、次の瞬間には何もない空間に三人だけがいた。 かろうじて床らしき物があるだけで、それ以外はただ闇のようだった。けれど、闇のようなだけで、三人の姿ははっきりと見えることを考えると、闇ではないのだろう。 「わざわざこんな所まで飛ばすなんて……それほど他人を巻き込みたくなかったんですか？」 ティエラが小さく嘲るように笑うと、亜緒はそれを睨み付けるようにした。 「……だったら、何だって言うの？」 「いえ。他人のために貴女はこんなところで一生を終えるのかと思いまして……」 そこまで言うと、ティエラは笑みを消し、亜緒の方に手をかざした。 ティエラの掌に光が集まっていき、やがてそれは小さな結晶のようになった。 「それでは、消えて頂きます！」 その言葉とほぼ同時に、光の結晶は亜緒の方にスピードをつけて飛んでいった。 「っ！」 かろうじて結晶を避けたが、思い切りバランスを崩し、亜緒はその場に倒れ込んだ。 そこをティエラが見逃すはずなかった。 すかさず、掌に光を集め、小さな結晶を作りだした。 「さようなら、姫様」 氷のような笑顔を浮かべると、光の結晶は、真っ直ぐに亜緒の方に向かった。先ほどよりも心なしか加速している。 避けられない、と思った。 それから、これで、全部終わると思った。 亜緒は静かに目を閉じ、衝撃を待った。 あっけなく、全てが終わるはずだった。 「……え？」 けれど、衝撃よりも先に、身体が宙に浮くような不思議な感覚がし、思わず目を開けた。 浮いたのはほんの一瞬。すぐにまた地面に倒れ込むような形になった。 「……佐伯、くん……？」 自分に覆い被さるように倒れている勇の姿がそこにはあった。 すぐに、理解は出来た。 勇が亜緒を抱きかかえて助けてくれた事。 だが、理解したと同時に疑問が浮かんできた。 「どうして、ここに？」 巻き込まないために、場所まで変えたのに。 巻き込みたくないから、離れててと言ったのに。 これ以上は、絶対に、誰も、巻き込みたくなかったのに。 「……まぁ、良いじゃん。細かい事は」 視線を逸らしたまま笑う勇に、亜緒は思わずため息を吐いた。 「笑って誤魔化せられると思わないでくれない？ それから、早くどけて」 勇を押しのけながら起きあがると、亜緒は軽くスカートをなおし、勇に背を向けた。 ティエラを真っ直ぐに見据えながら、亜緒は小さく謝った。 「……ありがと。それから……ごめんなさい……」 かろうじて勇の耳に届く程度の呟き。一瞬自分の耳を疑うくらいに小さな呟き。 感謝の言葉はまだ理解できた。けれど、なぜ謝罪されるのかわからなかった。 その『ごめん』の意味を聞こうと勇が口を開きかけたとき、それを遮るかのように亜緒が声を張り上げた。 「警告します！ ティエラ＝ユーゼリア。国外での魔法の発動は、次元に影響を与える恐れがあります！ よって、これ以上の魔法の発動を禁じます！」 けれど、ティエラは小さく声を上げて笑った。 そのまま、先ほどよりも更に上へと上がっていった。 そして、見下ろすように、見下すように、笑った。 「姫様、今更そのような警告を聞くとお思いですか？」 ティエラは両手を上にかざし、更に言葉を続けた。 「貴女ごときの警告を、誰が聞くと思っていらっしゃるの？」 かざした掌には、先ほどと同じように光が集まってきていた。けれど、その光は、先ほどの比ではないくらいに多かった。 ティエラの頭上に出来上がっていく光の結晶も、当然ながら大きな物だった。 その様子を見て、亜緒は一歩後退し、勇の目の前に立った。 「佐伯くん、そこから絶対に動かないでね」 勇の方をわずかに振り返りながら、亜緒は胸元のリボンをほどいた。 それから、ブラウスのボタンを一つ二つとはずした。が、外した胸元を隠すように、ブラウスの前をあわせ、ぎゅっと掴んでいた。 もう背を向けている亜緒の表情を、勇は見る事が出来なかったが、亜緒の背中が妙に苦しそうに見えた。 事実、亜緒は何かを耐えるように表情を歪めていた。 「最終警告です！ 今すぐ帰還しなさい！ そうすれば、罪も軽くなります」 胸を張り、まるで精一杯の強がりでも言うように、亜緒は声を張り上げた。 それでもティエラは、亜緒の警告を無視した。 「姫様、これで終わりです」 笑みを浮かべたまま、自らの頭上に作った結晶を亜緒に向かって投げつけた。 その結晶は、もう人が三、四人は入る大きさだった。 亜緒は結晶を見つめながら、勇にさえ届かない小さな呟きを漏らした。 「……どうして、聞いてくれないの……」 呟きが消えると、すぐに前を睨み付け、胸元を隠していた手を前にかざした。 手をかざした瞬間、放たれた胸元が青白く輝いた。 光を発しているのは、胸元に刻まれた紋様。 その紋様の中心には光と同じような色をした真珠のような小さな珠。大きさはピンポン玉程度だろうか。紋様と珠は、亜緒の胸元にまるで初めからあったかのようだった。 そこから発せられた光は、二人を包むように、まるでドームのような形を描いた。 ティエラの作りだした結晶は、そのドームに当たると、真っ直ぐに跳ね返っていった。 跳ね返った瞬間、亜緒が顔を歪めた。 「あ……」 結晶が跳ね返った先には、ティエラがいた。結晶は迷うことなく、作り主に戻っていった。 作り主がそのことに気づいたとき、そのときはもう、手遅れだった。 「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」 何もない空間に、亜緒の叫びだけがむなしく響いた。 結晶がティエラに当たると、空間が一瞬真っ白になった。 そして、空間が元の色に戻ると、ティエラは亜緒の前に落ちてきた。 いや、それはもうティエラなのかもわからない。 わずかにも動かないそれは、亜緒の足下にあった。 「……あ……ぁ……」 怯えたような瞳で、亜緒はそれを見つめていた。 足の力が抜けたのか、その場に崩れ落ちたが、それでも瞳はまだそれを映していた。 二人を包んでいた光はいつの間にか消えていたが、そんなこと誰も気にもとめなかった。 亜緒は目の前にある動かないそれを、勇は怯えたように震えている亜緒を、お互いそれ以外を気にとめる余裕がなかった。 「あの、さ……大空……」 状況は何一つ飲み込めていないが、それでも勇は言葉を探していた。 目の前で怯えている少女にかける言葉を。 言葉は何一つ見つけられないが、それでも、無理矢理絞り出して声をかけた。 だが、それがきっかけになった。 「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ！！！」 亜緒の中の何かが弾けた。 泣き声とも、叫び声ともつかぬ声を合図に、亜緒の胸元がもう一度光った。 先ほどの包み込むような光ではない。 全身を刺すような光。 あまりにも強すぎる光に、目が潰れそうになった。 目を強く閉じても、それでも強い光を感じる。 何も見えなかった。 だから、気がつけなかった。 来たときと同じように、それ以上に、空間が歪んだ事に。 |