第一章――青の見る夢

 ふいに、身体を揺すられているような感覚に気付いた。
 こうやって起こされるのはどれくらいぶりだろうと思いながら、勇は耳を澄ませた。
「授業、始まってますよ。起きなくて良いんですか?」
 ひそめた声。心地よいソプラノ。けれど、その声に聞き覚えはなかった。
 勇は、顔を少しだけ上げて声の主の方を見た。
「……誰?」
 クラスメイトの顔なんてほとんど覚えていないが、それでも多少は見覚えくらいあるはずだった。
 勇の目の前にいるクラスメイトは、小柄な少女だった。日本人にしては色素が薄い。髪はさらさらとした柔らかそうなセミロング。小柄で、顔つきも少女の物なのに、どこか大人びた雰囲気があった。夏なのに、制服のブラウスのボタンを一番上まできっちり閉めていて、珍しいなと感じた。
 けれど、その顔には全く見覚えがなかった。
 そもそも、隣の席に人はいなかったような気がした。
 その疑問は、少女の答えで全て解消された。
 少女は小さく頭を下げて、答えた。
「今日転校してきた、大空亜緒です」
「オオゾラアオ?」
 転校生ならば、知っているはずがなかった。勇の記憶が間違っていたわけではないようだ。
 まだ頭が眠っているのか、勇はしばらくぼんやりとしていたが、やがて口を開いた。
 普段なら、こんなこと口にするはずもないのだが、何故か気がつくと口に出していた。
「良い名前だな」
「……は?」
 亜緒が不思議そうに首を傾げていた。
 その様子を気にも止めず、勇はぼんやりと言葉を続けた。
「だって、大空が青いと平和な感じがするだろう? だから、良い名前だなって」
 勇の説明を聞きながら、亜緒は不機嫌そうに眉をひそめた。先ほどまでの態度とは一変していた。
「馬鹿じゃないの?」
 一言だけ、はっきりとそう告げた。
 先ほどまでの礼儀正しさなど欠片も感じなかった。
 もっとも、人を馬鹿にするときにさえ礼儀正しかったら、それはそれで腹立たしいものがある。
 言った方はとにかく、言われた方は黙っていられるはずがなかった。初対面の相手に理由もわからず馬鹿にされたのだから。
「なっ……どういう意味だよ?!」
 思わず、声を張り上げて立ち上がった。
 が、今は授業中である。
 クラスの全員の目が一斉に勇に注がれた。一瞬のうちに教室は静まりかえった。
「……ぁ」
 さすがの勇も少々気まずくなり、「何でもありません」と言って静かに着席した。その後、多少の気まずさもあったが、何事もなかったかのように授業は再開された。
 誰一人として、勇に注意する者はいなかった。
 授業が再開されると、勇は声をひそめて亜緒に話しかけた。
「おい。何でいきなり馬鹿呼ばわりされるんだよ?」
「……当然よ。だって」
 真っ直ぐな瞳で亜緒は、勇を見た。
 一瞬、勇はドキッとしたが、すぐに気付いた。
 勇を見てるんじゃなく、その後ろの更に向こう。窓の外に広がる空を見ているのだと。
 けれど、その瞳はもっとどこか遠くを見ているような気がした。ここではない、どこか遠いところを。
「空が青くても、平和じゃない国だってあるんだから……」
 その声、その瞳に、わずかに悲しみが見えた気がした。
 だが、亜緒はすぐにその瞳を伏せてノートにペンを走らせた。
「それに、私の名前は『亜緒』であって『青』じゃないのよ」
 そう言って、ノートの端に書いた『亜緒』と『青』を見せた。
 勇の顔を覗き込むようにして、亜緒は言った。
「今朝、黒板に書いたじゃない」
 簡単な自己紹介をするときに、名前を黒板に書かれたのだろう。
 だが、そのときは残念ながら勇は熟睡していたのだから見ているはずがない。
 何となく、バツの悪さを感じて顔を背けて小さく呟いた。
「……寝てたから、黒板なんて見てなかったんだよ……」
 勇の呟きが小さすぎたのか、亜緒はきょとんとしていた。
「? 何か言った?」
「何でもない」
 思わず、低い声で一言そう吐き捨てた。
 別に、亜緒に対して腹が立ったわけではない。何となく、自分が情けなく感じたからだ。お互いの顔が見えないままだったが、亜緒は特に気にした様子もなかった。
「……なら良いけど」
 そう言って、亜緒は机に向き直ったが、ふと思い出したように言葉を続けた。
「そう言えば。ホームルームくらいは起きてた方が良いと思うわよ。連絡事項聞き逃すから」
「……は?」
 少し考えればわかることのはずだった。どうしてわからなかったのか、今となっては本人も不思議でたまらない。
 隣の席にいるのだから、ホームルームから寝ていることなんて知っていて当然なのだと。
 黒板に書かれた名前なんて見てないこと、わかっていて当然なのだと。
 つまり亜緒は、わかっていて言ったのだと。
「お前……っ!」
 口から出かかった言葉は、すぐに喉の奥へと戻っていった。
 なぜなら、声を上げた途端、先ほどと同じようにクラス全員の視線が注がれたからだ。
「…………」
 立ち上がりかけていた勇は大きく息を吐いた。何も言わずに着席すると、亜緒を軽く睨み付けてから、また机に突っ伏した。
 勇が眠った後の授業は、起きているときとはわずかに空気が違っていた。亜緒でさえも、空気の違いには気付いていたが、その理由はわからなかった。だが、授業終了と同時に近づいてきたクラスメイトの言葉で、その理由を知らされた。
 眠りにつく前から、勇には、この展開が大体予想出来ていた。
 そして、この後どうなるかも。
 クラスメイトが親切にも、転校生に事情を説明するだろうと。その説明を聞いた後で、態度が変わるであろうことも予想できた。
 予想できてはいたが、別にそれをどうにかしようとは思わなかった。
 このままでいれば、転校生がクラスから、それどころか学校から浮いた存在になることがわかっていたから。
 別に、赤の他人がどうなろうと関係ないことではあるが、その原因になるのは嫌だった。
 ――久しぶりに、まともな会話ができたから、それでもう十分だ
 そう思いながら、またいつもの日常に戻ろうとしていた。
 けれど、一つだけ。
 ――そう言えば、まだ見てないな
 自分でも、どうしてそんなことが気になるのか不思議だった。
 けれど、やはり一つだけ。
 ほんの数分しか話していないけれど、その間一度も見ていない。
 ――笑ってるところ……
 それどころか、どことなく寂しそうな表情をしていた。ずっと。
 授業中に笑顔を浮かべる人間も、そうはいないだろうが、ずっと寂しそうな瞳をしている人間もそうはいない。
 さっきのようなくだらない会話をすることが出来なくても構わないけれど、笑っているところが見てみたかったと、何故か思っていた。
 何故そんなことを思うのか、自分でもよくわからなかった。
「二時間目、始まるよ?」
 聞こえるはずの無かったソプラノ。
 そのソプラノが、何故か勇を起こそうとしていた。
「……なんで?」
 顔を上げて、目を丸くしたまま小さく呟いた。
 勇が想像していたこととは違う。
 もう、声をかけてこないと、他のクラスメイトと同じ態度になると思っていたのに。それなのに、亜緒はさっきと変わらない表情で勇に声をかけてきた。
 こんなことが起きるとは思っていなかった。
「寝過ぎると、よけい馬鹿になるわよ」
 勇の質問に答えようとせず、亜緒はしれっと言ってのけた。
 どうしてこんなに馬鹿にされなければいけないのか、勇は不思議でたまらなかった。
「……何でそこまで馬鹿扱いされなきゃなんねぇんだよ」
「馬鹿だからでしょ?」
 勇の言葉に、ほとんど間を空けずに的確に答えを返してきた。
 確かに、的確な答えではあったが、勇の求めているような答えとは違った。
 勇が言い返そうと口を開きかけたときだった。
「だって、そうでしょ」
 真っ直ぐな瞳を向けて、ゆっくりと言葉を続けた。
 その瞳は、空でも、どこか遠くでもなく、真っ直ぐに勇を見ていた。
「まだ、何もしてないのに諦めるなんて、馬鹿のする事よ」
 ――何も、してない?
 喉の奥で言葉が浮かんでは消えていった。
 オマエニ、ナニガワカル?
 ワカッタヨウナコトヲ……
 ドレダケアラガッタカシラナイクセニ。
「……今更?」
 今更、何をすれと言う?
 亜緒の真っ直ぐな瞳を、嘲るように呟いた。
 その瞬間
 ほんの一瞬、気のせいだと思うくらい一瞬。
 亜緒の瞳から、妙な強さを感じた。
「ごく少数だけど、ひょっとしたら出会えないかもしれないけれど」
 亜緒の言葉を聞きながら、勇は思った。
「わかってくれる人はいるから、だから諦めずに叫び続けてみたら?」
 ――彼女は、何を知っているのだろう?
 その思いは口に出されることはなく、勇の中に消えていった。
 それから、亜緒は何事もなかったかのようにその日の授業を受けていた。
 勇は、珍しく眠らずにぼんやりと考えていた。
 叫び続けてみたらと言った彼女が、わずかに微笑んだように見えたのは、目の錯覚だったのだろうかとぼんやり考えていた。
 見てみたいと思っていたから、錯覚したのだろうか。
 けれど、勇の目には、わずかでも、しっかりと微笑んだように映った。
 望んでいた笑顔を、例え錯覚でも見れたのに、それでも、まだ何かを望んでいる自分に気がついた。
 自分が何を望んでいるのか、少しもわかりはしなかった。
「大空」
 放課後になって、亜緒を呼び止める勇のが姿があった。
 勇自身、自分がこんな行動に出ることが、不思議でたまらなかった。
 だが、それ以上にその光景を不思議に思う者がいた。
 いくらクラスメイトが思い思い騒々しくしているからと言っても、教室の中で呼び止めるその姿は目立ちすぎた。教室の外からざわめきは聞こえるが、教室の中の音は見事に消えていた。
 クラス全体が、勇の行動に反応を示していた。
「……」
 亜緒はその様子を見て小さく息を吐いてから、教室から出ていった。
「おいっ! ちょ、待てって!」
 勇は慌てたようにその後を追いかけていった。
 当然と言えば当然だろう。声をかけたのにもかかわらず、何もなかったかのように無視されたのだから。
 二人が出ていったあとの教室は、また元のように賑わいを取り戻した。
 まるで勇なんていなかったかのように。

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