あのとき、家にいなかったのは、本当に偶然。
 家族は全員家にいたのに、自分一人だけ家にいなかった。一人だけ出かけていた。
 気づいたのは、妙に騒がしかったから。
 好奇心というものがあまりなく、行き交う人々を横目で見るだけで終わった。
 耳に届く会話もあまりに気に止めなかった。
 認識は精々「何かが起きている」程度のものだった。
 だから、微塵も気にとめなかった。
 買う物を買って、家路につくと、何故か自分の家のある方に人が駆けていく。
 自分の家の周辺で騒ぎがあったんだろうかと思った。
 けれど、家に近づけば近づくほど、そうではない予感がしてきた。
 予感と言うよりも、確信に近かった。
 近所の人が、自分の顔を見ると、ひどく驚いたような悲しそうな哀れむような瞳をしていた。
 それがどういう意味かわからなかった。
 わからないけれど、最初は歩いていたのに、段々走るように変わっていった。
 違うと思った。
 違えばいいと思った。
 こんな予感、外れればいいと思った。
 当たって欲しくないと、切に願っていた。
 けれど、家に着くと、そこは……

「っ!!」
 目を覚ますと、嫌な汗をかいていた。
 久しぶりに見た、あのときの夢。
 心臓の鼓動が、まだ早いままだった。
 呼吸も荒い。
 ベッドから起きあがると、誰もいないのに、誤魔化すように呟いた。
「……いつの間に、寝てたんだ」
 部屋に案内された後、鞄を漁ってもノートや教科書の類しかなく、ケータイは当然ながら圏外で、することが何もなく、ベッドに横になってぼんやり考え事をしていたはずだった。
 こんなところで勉強をする気なんか起きるはずもなく、ただただぼんやりと。
 それが、いつの間にか眠っていたらしい。
 眠っていて、あの夢を……
 夢のことを忘れようと、頭を大きく振り、それから、まだ荒い呼吸を、ゆっくりと落ち着かせていると、突然扉をノックする音が聞こえた。
「……佐伯くん? ちょっと、良いかしら?」
 扉から顔を覗かせる亜緒は、走ってきたのか息が荒かった。
「どうしたんだよ」
 久しぶりに見た夢のせいもあり、急に現れた亜緒に動揺したが、それを出来るだけ見せないように、いつも通りであるよう努めた。
 そんな勇の努力もほとんど無駄だった。
 亜緒は、勇の様子を気にする余裕もないようで、扉に身体を預け、ゆっくりと息を吐いていた。
 ただ走ってきただけではなく、まるで何か運動をしたあとのような……
 ひどく疲れた顔でゆっくりと言葉を紡いだ。
「佐伯くんを、元の世界……日本に帰してあげる」
「……え?」
 勇が何か言おうとする前に、亜緒は持っていた本を開き、もう片手を勇の方にかざした。
「こんなことに巻き込んでごめんなさいね。でも、大丈夫。ここに来た事も、私に会った事も全部記憶から消してあげるから」
 ほんの少し、微笑んで、けれど、その笑顔はどこか泣きそうで……
 そんな彼女の様子に思わず口を開きかけたが、何を言って良いのかわからなかった。
 何故泣きそうな顔をしてるのかもわからず、そんな彼女にかける言葉をすぐに見つけられるほど付き合いは深くなかった。
 まだ出会ってから数時間しか経っていない。
 そんな勇から目を逸らすかのように、亜緒は手にしていた本に視線を落とした。
 亜緒の胸元が淡く輝き、何かを唱えようとしたそのときだった。
「姫様!」
 酷く慌てた様子で、メイドが部屋に駆け込んできた。
 亜緒は一瞬驚いたようだったが、すぐに「落ち着いて」とメイドに声をかけていた。
 けれど、メイドは落ち着く様子などなく、亜緒にすがりつくように叫んだ。
「姫様、王族側が……王族側がっ!」
 その言葉がどういう意味を持っているのか、勇にはわからなかった。
 だが、亜緒の表情が険しくなった。
 亜緒は、メイドのその一言で、全てを理解出来たのだ。
「……どうして、こんなときに……」
 険しさの中にも、どこかつらさと悲しさを感じさせるような瞳で、小さく呟いた。
 その様子を今にも泣き出しそうな、不安げな瞳でメイドが見つめていた。
「あの……ひめ、さま?」
 どうして良いのかわからず、声をかけるだけで精一杯のようだった。
 亜緒はその不安をくみ取るかのように優しく微笑んだ。
「心配しないで。大丈夫だから」
 その言葉で、わずかでも心配が消えたのだろうか。
 安心したかのように、わずかに微笑んだ。
 メイドの様子に、亜緒は安心したように息を吐いた。
「すぐに行くわ。だから、無茶しないでってみんなに伝えてもらえる?」
 亜緒の言葉を聞くと、メイドはしっかりと頷き、部屋を出ようとした。
 出ようとしたが、一度振り返って、心配そうに亜緒を見つめた。
 しばらく悩んでいたが、やがて意を決したかのように口を開いた。
「姫様も……ご無理はなさらずに」
 それだけ言うと、メイドは頭を下げて、部屋を飛び出した。
 そのメイドがいた場所を、亜緒はしばらくの間呆然と見ていたが、やがて思い出したかのようにぱっと顔を上げて、勇に言った。
「佐伯くん、この部屋から出ないでね。絶対に」
「は? なんで……」
 勇が抗議の声を上げるよりも先に、亜緒は部屋を飛び出した。
 そして、勇が部屋から出る前に、扉の鍵をかけた。
 その鍵を内側から開ける事は出来ない。
 完全に閉じこめられた。
「おい! 大空!」
 内側から扉を叩く音がする。
「どういうつもりだ?! 鍵開けろ! おい!」
 けれど、叩いたくらいでどうにかなるほど脆い扉ではない。
 城の扉は厚く頑丈だった。
 亜緒は、その扉に軽く額をつけ、厚い扉越しにかろうじて届く程度の呟きを漏らした。
「ごめんね……さよなら」
 扉越しで、その表情はうかがえない。
 けれど、その表情はおそらく……
「……さよならって、どういう……おいっ!」
 扉の向こうの人の気配が、足音が、遠ざかっていく。
 勇は何度も何度も必死に扉を叩いた。
 声の限り、その名を叫んだ。
「おおぞらぁぁぁっ!!」
 足音はもう聞こえない。
 むなしく響くのは、勇の声だけ。
「……っくそ!」
 目の前の扉を、最後にもう一度。力の限り叩いたが、扉はびくともしない。ただ、拳に痛みが走るだけ。
 扉に体重を預け、やるせない気持ちで俯いた。
「……どういうことだよ……さよなら、って」
 呟いた言葉に答えが返ってくる事はなかった。
 勇が口をつぐむと、静かなものだった。
 物音一つ無い。
 この広い城に、勇一人が完全に取り残されたようだった。
 静かな空間では、わずかな物音でも、よく響いた。
「大空?!」
 勇はすぐに気づいた。
 遠くから近づく足音があることに。
 一瞬、亜緒が戻ってきたのかと思った。
 けれど、聞こえる足音はどこか違う。
 引きずるような、重たいような……亜緒の足音とは違うように感じる。
 不思議に思い耳を澄ませていたが、足音はこの部屋の前で止まった。
 そして、鍵を開けるような金属のぶつかる音。
 鍵が開いたと同時に、勇は扉を開けた。
「どういうつもりだ! 大空!」
 わざわざ鍵をかけてまで勇を部屋から出さないようにし、更には唐突に「さよなら」と別れを告げた亜緒に、文句の一つ二つ言ってやろうと思っていた。
 その気持ちがあったせいか、扉を開けたのは亜緒だと思っていた。
 他の誰かの可能性を考えていなかった。
「……ガディス、さん?」
 そこには亜緒の姿はなく、ガディスの姿しかなかった。
 何故か傷だらけになっているガディスの姿だけ。
「佐伯、様……姫様、は……?」
 立っているのもやっとのように見えるのに、彼女は亜緒の行方を気にしていた。
「ちょっ! それよりもまず自分の心配を……」
 勇が手を貸そうとすると、ガディスはそれを拒むように声を上げた。
「私は良いんです! それよりも、姫様はどこにいらっしゃるんですか?!」
 先ほどとはまるで別人のような剣幕に、勇は思わず一歩引いた。
 何が起きているのかわからない。何一つ理解出来ていない。けれど、さっきのメイドの言葉を思い出した。どんな意味があるのかわからないが、これ以外に伝えられる言葉がなかった。
「……さっき、王族側がって……」
 それだけ聞くと、ガディスは全て理解したのか、力無く床に座り込んだ。
 ただ呆然とどこか一点を見つめて「遅かった」と呟いた。
 勇が慌てて手を差し伸べたが、ガディスは首を横に振って、真っ直ぐに勇を見つめた。
「私は大丈夫です。それよりも、早く姫様のところに行ってください!」
 そうは言われても、勇は動こうとしなかった。
 傷だらけのガディスを置いていって良いのだろうか。
 亜緒の事が気にならないわけではない。気にならないはずがない。
 けれど、怪我人を置いていくのはどうしても気が引けてしまう。
「……やっぱり、怪我人を放って置けません」
 その一言をかろうじて絞り出したが、ガディスはそれを受け入れようとはしなかった。
 はっきりと、言い放った。
「早くしないと、姫様が死んでしまうんですよ!」
 さすがに、勇も言葉を失った。
 ――ひょっとして、大空はそれがわかっていたらから「さよなら」と……
 何故彼女が死ななくてはいけないのかわからない。
 そもそも、そんな状況なのに、勇が行って何か変わるのだろうか。
 戸惑っている勇の背を押すように、ガディスは言葉を続けた。
「これくらいの怪我なら、自分でどうにか出来ますから、だから、早く姫様を……」
 悩んだのはわずか一瞬。
 勇はすぐに部屋を飛び出した。
「すぐに大空連れて戻ってきます!」
 どこにいるかはわからなかった。
 けれど、大体の予想はつく。
 騒がしい方に向かえば良い。
 静まりかえっている城の中で、喧噪のする方向に行けば、おそらく。
 頼りは音だけ。
 騒がしい方へ騒がしい方へと駆けていく途中、何気なく窓の外に目をやった。
「な……っ!」
 思わず窓から身を乗り出した。
 そこから見えるのは、雲一つ無い青空の下で殺し合う人達の姿。
 叫び声、金属のぶつかり合う音、飛び散る血、逃げまどう人、倒れている人、動かない人、人だったもの……
 雲一つ無い青空を、平和の象徴のようだという言葉に対する亜緒の表情の意味が、亜緒の言葉の意味が、亜緒の気持ちがやっとわかった気がした。
 永遠の青空。その下に広がる血。
 こんな光景を見て、平和の象徴だなんて……
「……っ」
 勇は再度駆けだした。
 窓の外を見たとき、まだ、亜緒の姿はなかった。
 見たところ、あそこはこの城の入り口のようだった。
 おそらく、外から来た者の進入を防ごうとしているのだろう。
 亜緒は、きっとあそこに向かっている。
 そう確信していた。
 だが、亜緒より先にたどり着く事は不可能だろう。
 それがわかっているから、少しでも早くたどり着かなければと思った。
 たどり着いたところで、自分に何が出来るのかなんてわからない。
 あの状況をどうにかする力なんて、あるはずがない。
 それでも、早く向かわなければいけないと思った。
「……死なせて、たまるかよ……」
 今日出会ったばかりの少女。
 お互いの事も何もわからない。
 彼女の事を気にとめる理由は何もない。
 それでも、なぜか、わけもわからずに、彼女を死なせたくないと思った。

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