何処までも何処までも落ちていくのかと思ったけれど、それは唐突に終わりを告げた。
 衝撃のようなものも感じさせずに、おそらく地面だろうところに降り立った。
 そこは、外から見たときと同じように、何も見えない闇だった。
 ここに自分が本当にいるのかさえ見えない。
 光の全くない世界で、自分の姿を確認することは出来ない。
 声を出すのも躊躇うほどの静寂と闇。
 それでも、ここで臆するわけにはいかなかった。
 勇は大きく息を吸った。
「いるなら返事しろ、おおぞらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 その声はどこかにぶつかって反響する事もなく、消えていった。
「……閉じこもってるだけは、あるってことか」
 夢の中に入れても、亜緒には他人を受け入れる気がないらしい。
 全力で拒絶しているようだった。
「だからってなぁ……そう簡単に死なせてたまるかよ!」
 声を張り上げても、反応は何一つない。
 むしろ、勇自身、声になっているのかもわからない。
 それくらい、現実味のない空間だった。
「自分が死ねばホントにそれで良いと思ってんのか?!」
 けれど、どれだけ現実味がなくとも、勇は叫び続けた。
 それ以外に、何をすればいいのかわからなかった。
「お前が死んだら、次は誰が王位継ぐと思ってんだ?! お前みたいに何の関係もない奴かもしれないんだぞ!」
 何をすればいいのかわからないが、この空間をただひたすら歩き続け、亜緒の姿を探すよりもずっと効率的だと思った。
 見えない姿を追うよりも、聞こえるかもしれない声を発していた方が、良いと思った。
「また、お前と同じ思いをする奴が出るかもしれないんだぞ?! 逃げてどうするんだよ!」
 勇はもう一度大きく息を吸った。
 そして、ひときわ声を張り上げて叫んだ。
「何もせずに諦めるのは馬鹿のする事だって言ったのはお前だろ! 返事しろ大空ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 勇の叫びは静かに消えていった。
 肩で息をしながら、次の言葉を探していると、わずかに空間が動いた気がした。
「……? 大空?」
 声を出してみると、先ほどとは違い、わずかだが音が響いた。
 確実に、空間に変化があった。
 もう一押しだと感じ、荒い息のまま、勇は再度声を張り上げた。
「お前が死んだら、悲しむ奴がいるんだぞ! それでも死ぬ気か?!」
 勇の叫びが空間に響いた。
 その響きが消える前に、小さな反応があった。
「……悲しみなんて、すぐに消えるわよ」
 闇の中で、か細いソプラノが響いた。
「時が経てば、いずれ消えるわよ。人の死なんて、悲しみなんて、そんなものよ」
 どこからともなく響く声。
 どこから発せられているのかを探すが、見つける事が出来なかった。
 それでも勇は、周囲に気を張りながら叫んだ。
「んなことないって、わかってるはずだろ?! お前だって、悲しんでる側の人間だろ?!」
 勇の叫びに、返事が返ってこなかった。
 それは、静寂……
 静寂のように感じられたそれは、耳を澄ますとわずかながら声が聞こえた。
 すすり泣いている、消えそうな声。
「だから、って……これ、以上……私の、せ、で、死なせ、たくな……」
 途切れ途切れに紡がれる言葉。
 その声で、ようやく居場所がわかった。
「……そ、れに……私、なんか、ため、に、ホントに……悲しむ、人、なんか……」
 か細い声のする方へと、勇はゆっくりと歩を進めた。
「俺は、大空が死ぬのは、嫌だ」
 亜緒の細い腕を掴み、勇ははっきりと言った。
 その瞬間、闇が少し薄くなった。
 お互いの顔を確認出来る明るさがあった。
「……佐伯、くん?」
 薄暗くてわかりづらいが、泣いて赤くなった瞳で、亜緒は勇を見上げていた。
 勇は亜緒の顔を見て、笑顔を浮かべた。
「周りが何て言おうと知るか。俺は、大空に死んで欲しくない」
 しばらくの間、理解できなかったのか、思考がついていかなかったのか、ぼんやりと勇を見上げていた。
 だが、やがてぱっと逃げるように顔を逸らした。
「佐伯くんは、知らないからそんな事言えるのよ! 大事な人を、失う、つらさを……」
 勢いがよかったのは最初だけ。途中から、その声は消えそうになっていた。
 何かを思いだしたかのように、声は弱くなっていった。
 その様子を見て、勇はわずかに表情を硬くして呟いた。
「それくらい、わかってる。俺だって、大空と同じ側の人間だからな」
 勇のその言葉に、亜緒は思わず驚いたように視線を戻した。
 顔色をうかがうような様子の亜緒に、勇は微笑み、言葉を続けた。
「俺の家族の場合は、事故だったけどな。家族旅行の帰りに事故って、俺だけ偶然助かったんだ」
 今でも覚えている。
 真っ赤な血の海の中、息をしているのは自分だけ。
 どれだけ声をかけても、誰一人返事をしてくれない。
 誰一人反応してくれない。
 唯一人だけ、奇跡的に生き残ってしまった。
「その後、引き取ってくれるような親戚もいなかったんだけど、偶然跡取り探してた人に引き取られたってわけ」
 引き取られた事により、今まで付き合っていた友人たちとは離れ、もう連絡も取っていない。
 入れられた学校は、養父が権力をふるう学校。
 前に一度、校内で問題を起こしたときは、その問題に関わった人間を、勇以外を全員飛ばしてしまった。
 それ以来、勇に近寄ろうとする者も消えた。
 養父も必要なとき以外は、会いもしない。
 勇は、ひとりにされていた。
 必要なものは何でも与えてくれた。けれど、一番必要なものは何一つ与えてくれなかった。
 これならいっそ、家族が死んだときに、自分も死ねば良かったと何度も思った。
 何でもない事のように、語る勇に、亜緒はゆっくりと手を伸ばした。
「……泣いて、いいよ?」
 勇の頬に触れながら、亜緒は穏やかに言葉を紡いだ。
 その言葉に、勇は小さく頷いた。
「でも、俺……大空の前では泣きたくないなぁー」
 もうすっかり闇の薄くなった空間で、勇はわざとらしく言った。
「やっぱこれ以上弱みさらしたくないしなぁー」
「それじゃぁ、私ばっかり弱いとこさらして、公平じゃないわよ」
 勇の様子につられ、亜緒もわざとらしくふくれて言った。
 しばらく黙って顔を見合わせていたが、やがて耐えかねたように二人揃ってふきだした。
「あははは、佐伯くん、おっかし……何、今の顔ー!」
「おま、大空だって……くくっ、今時、ふくれて……」
 今までの雰囲気を全てどこかに飛ばしてしまうように、二人して転がるように笑いあった。
 これだけ笑ったのはどれくらいぶりだろうと思うくらいに二人は笑いあった。
 やがて、目尻に涙を浮かべて、腹を抱えたまま、もう一度顔を見合わせた。
 もうこの空間に、闇はなかった。
「まさか、こんなに笑う日がまた来るなんて思ってもいなかった。夢みたい」
 目尻の涙を拭いつつ亜緒が言うと、勇はまた笑い出した。
「ばっか! これ、お前の夢だろ? 何言ってんだよ!」
「そうだけど……佐伯くんにだけは馬鹿って言われたくないなぁ」
 不服そうに呟く亜緒を見て、勇はまた笑い出した。
 昨日会ったばかりだが、亜緒がそんな表情をするとは思ってもいなかった。
 笑いながら、横目で亜緒を見ると、相変わらず不服そうにしていた。
 その様子は年相応よりも幼く感じた。
 最初に感じた大人びた雰囲気はどこにもなかった。
「……じゃぁ、そろそろ帰るか」
 ある程度笑いが落ち着くと、勇は亜緒に手を差し伸べた。
 差し伸べられた手を、しばらく不安げに見ていたが、やがてその手を取って、小さく頷いた。
「ねぇ、佐伯くん……」
 か細いソプラノが、小さく響いた。
 その声に勇は振り返った。
 けれど、夢はさめかけていた。
 世界が白くなっていく中、意識が遠のく中、亜緒の口が動いていた。
「絶対、守るから……だから、死なないでね」
 その言葉は、音とならず、勇に届くことなく消えた。

 勇が目を開けると、そこには覗き込んでくる顔があった。
「おはよ、佐伯くん」
 ほんの少し先に目を覚ましていた亜緒が、何事もなかったかのように微笑んでいた。
 先ほどまで危ない状態だったとは、とても思えない。
 身体を起こし、小さく「おはよ」と答えた勇は、まだ半分寝ぼけた様子で辺りを見回した。
「……ガディスさんは?」
「食事の用意してくるって言って、佐伯くんが起きる少し前に出ていったわよ」
 まだ頭が働いていないらしい勇は、上の空で返事を返した。
 夢の中であれだけ頑張ってくれたのだから、こんな様子でも仕方ないとわかってはいるのだが、亜緒は思わず笑い出しそうになった。
 さっきまで笑い転げたり、偉そうなことを言ったりしていたのに、その勢いは何処へ行ったのか。
 けれど、それと同時に少しだけ安心していた。
 夢から覚める寸前に言った言葉を、尋ねられることはないだろうと思った。
 あのとき、勢いで口にしたが、正直聞かれないでよかったと思っていた。
「……佐伯くん」
 小さく微笑みながら、亜緒は勇の隣に腰を下ろした。
 勇は眠そうにしながらも、小さく「んー」と言葉を返した。
 わざわざ一言一言に律儀にも返事を返してくる様が、なんだかおかしくて、微笑ましくなった。
 言いづらくて、まだ口にしていなかったけれど。
 今なら、言えるような気がした。
 勇から視線を逸らし、ゆっくりと息を吸った。
 それから、真っ直ぐに勇を見て、小さく口を開いた。
「……わざわざ来てくれて、ありがと」
 小さなその言葉は、ほぼ同時に開かれた扉の音でかき消された。
 扉を開けたガディスは、勇が起きているのを見ると安堵したように微笑んだ。
「食事の用意がととのいました」
「……わかった」
 わずかにガディスから視線を逸らしながら立ち上がると、亜緒は機嫌悪そうに部屋を出ていった。
 すれ違うときに、一瞬、ガディスを睨んだように見えたのは、錯覚ではないだろう。
 ガディスはその後ろ姿を不思議そうに見送った。
「……佐伯様?」
 状況を飲み込めず、勇に尋ねようとしたが、勇は相変わらずまだ半分眠っているようだった。

 そんな、ほんのわずかの平穏な時間。

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