どことなくローマを思わせる神殿だった。
 真っ白な石で造られた神殿は、どこか近寄りがたい雰囲気だった。
 だが、外から見るよりもやはり中の方が神聖な雰囲気を醸し出していた。
 ガディスに連れられるままに、亜緒と勇は神殿の奥へ奥へと足を進めていた。
「姫様、佐伯様。こちらになります」
 そう言ってガディスは、目の前にある地下へと続く階段を示した。
 だが、ガディスはそれより先に行こうとはしなかった。
 不思議に思い、勇は口を開いた。
「ガディスさんは、行かないんですか?」
 尋ねられたガディスは笑顔を浮かべたまま頷いた。
「はい。申し訳ありませんが、私も仕事がございまして……」
 あくまでも彼女の仕事は、この神殿の巫女である。
 城に仕える身ではないのにもかかわらず、勇が来てからは、ほぼずっと亜緒のそばにいた。
 仕事が溜まっていてもおかしくはない。
 彼女が謝る必要など、何一つとしてなかった。
 そのことを知っているからこそ、亜緒はどうしようもなく申し訳ない気持ちになった。
「私の方こそごめんね。仕事の邪魔しちゃって……」
「いいえ。私が好きでした事なのですから、姫様はお気になさらずに調査を進めてください」
 何でもない事のように言って、ガディスは二人を見送った。
 地下への階段を下りている途中、わずかに前を歩く亜緒に声をかけた。
「なぁ、大空。聖水って……」
 そう尋ねる声が、地下に響いた。
 地下とは言え、神殿の中だからだろうか。
 蝋燭に灯はともっていて明るく、階段も壁も石造りで、地下とは思えなかった。
「佐伯くんの世界にもあったでしょ? 不思議な力があると言われているような水が」
 現実に存在するのかはわからないが、たしかにゲームの中などではよく出てくる。
 もっとも、現実に存在しても、そんな不思議な力があるとは思えない。
「こっちの聖水って、やっぱり何か力があるんだ?」
「本当かどうかはわからないけどね。女神のご加護で万病に効くとは昔から言われてるわよ」
 亜緒は、何もおかしな事は言っていない。
 けれど、なぜか、勇はさっきから妙な違和感を感じていた。
 亜緒の言葉の、何かに。
「……大空ってさぁ」
 勇は、自分の中で感じた違和感を、言葉にした。
 その言葉に確信はない。
「この国の女神、信じてない?」
 その問いかけに、亜緒の足が止まった。
 数段下に立ち止まり、振り返らずに、か細い声で尋ねた。
「……どう、して?」
「どうしてって言われてもなぁ……」
 頬を掻きながら、思い返してみた。
 ガディスが巫女だから余計にそう感じるのかもしれないが、亜緒の言動はどうしても『女神を崇めている』という感じがしなかった。
 勇は宗教とあまり関わりのない国に生まれたからよくわからないが、亜緒を見ていると、どうも違う気がしていた。
「なんか、そんな感じがしたから」
 正直にそう答えると、亜緒は「そっか」と小さく漏らした。
「信じてないってわけじゃないんだけどね……」
 ぽつりぽつりと言葉を紡ぎながら、亜緒は階段をまた下りはじめた。
「……もしも女神がいるんなら、どうして私を選んだのかなって……そのせいで、たくさんの人が死んじゃったのに」
 その言葉は、弱く、今にも消えそうだった。
 自分が選ばれなければ死ななかった人もいるのに、それでも選んでくれた女神を崇めろと言うのも無理な話なのかもしれない。
 女神に選ばれた事によって、亜緒は一体どれだけ苦しんだのだろう。
 その苦しみはきっと想像を超えるのだろう。
 二人の靴音が、地下に響き渡った。
「……けどさ、俺はこの国の人間じゃないけど、女神に感謝してる」
 小さく、けれどはっきりと口にしたその言葉に、亜緒は思わず振り向いた。
 亜緒の視線の先では、勇が笑っていた。
「だって、大空を選んでくれたおかげで、俺は大空に会えたんだから」
「……っ!」
 勇の言葉を聞くと、亜緒は思わず顔を背け、また前を見て歩き出した。
 心なしか、歩くペースが速い。
 それは、どことなく、逃げるようで……
「……なんで、そういうこと、あっさり言うのかなぁ……」
 勇に聞こえないように、小さくぼやきながら、亜緒は階段を下りきった。
 案の定、勇は聞こえていなかったらしく、亜緒の少し後ろから「何か言った?」と尋ねてきた。
 気づかれないように、誤魔化すように、わざと素っ気なく返した。
「気のせいじゃない? それよりも、ついたわよ」
 亜緒の言葉で初めて勇は目の前に広がる光景に気づいた。
 そこは石造りの小さな泉。
 上の神殿も確かに神聖な雰囲気を出していたが、ここの比ではなかった。
 女神を信仰しているわけでもない自分が、こんなところに来てよかったのだろうかと勇が思うほどだった。
「ほら、佐伯くん。こっちよ」
 勇の気持ちに気づかないのか、亜緒は奥へと続く道を見つけ、そこで勇を手招いていた。
 泉を全て調べようとしているのだから、一つにそれほど時間をかけられないのは勇だってわかっている。
「……今行く」
 勇は、思ったよりも亜緒が鈍い事を知った。
 思わずため息を吐くと、亜緒が不思議そうにしていた。
「? どうかした?」
「いや、なんでもない」
 小さく返事を返し、亜緒の元に行くと、そこには暗い道が続いていた。
 奥へと続く薄暗い道。
 蝋燭はあるが、蝋燭と蝋燭の間隔が広く、壁も岩肌がむき出しだった。
「……この奥にあるんだ?」
「たぶん、ね」
 亜緒が一歩踏み出すと、勇はその隣を並ぶように歩き出した。
 さっきまでいたところとは、まるで違った。
 けれど、不思議な事に、ここが神殿の一部だという気配だけはあった。
 言うならば、先ほどまでの場所は神を崇める神聖な場所。
 ここは、人が来てはいけない神だけが通れる道、のようだった。
 通っては、いけないような気がした。
 そうは思っても、この道を通らなければ、泉には行けない。
 道の脇を、細く水が流れていた。
「……なんか、ここって居心地悪いよね」
 亜緒が小さく漏らした言葉に、勇は少しだけ安心した。
 どうやら同じことを感じていたらしい。
「ここ、本来なら、私たちなんて通っちゃいけないんじゃないかと思う……」
「……あぁ。だろうな」
 なんとなく触れてみた岩肌は驚くくらいに冷たかった。
 蝋燭のそばでさえも、その冷たさは変わらなかった。
 それはまるで、人が来るのを拒んでるようにも思えた。
 本当に、こんなところに来てよかったのだろうか。
 何故か嫌な予感がした。
「……大丈夫だから」
 小さく呟いて、亜緒は勇のシャツの裾を掴んだ。
 その手はかすかに震えているように見えた。
「雰囲気も何もないところより、本物の『果てなき泉』な気がするでしょ?」
 亜緒の笑顔はこわばっていた。
 その笑顔を見て、勇は、亜緒も嫌な予感がしているのだとわかった。
 何か、言葉をかけようと思った。
 けれど、口を開きかけたところでそれを遮るように、掴んでいた裾を亜緒が引っ張った。
「佐伯くん、泉って……あれじゃない?」
 見てみると、たしかにそれらしい小さな泉があった。
 その泉は、今までの道とは少し違い、天井が高くドーム状になっていた。
 相変わらず岩肌がむき出しの壁だったが、何故か石造りの壁よりも神聖な雰囲気だった。
 そんな中にある小さな泉は、中心でわずかに湧き上がっているのが見えたが、半分以上干上がっていた。
「……これを、調べるのか?」
 そう尋ねると、亜緒は小さく頷いた。
 だが、どうやって調べるというのだろうか。
 泉に近づく亜緒を身ながら、勇はそんな事が気になっていた。
 亜緒は、しばらくの間泉を見つめていると、やがて靴を脱ぎ、足を泉の中にゆっくりとつけた。
 干上がった泉の中心まで行ったが、その深さは膝までもなかった。
 その場で、制服のリボンをほどくと、また胸元の紋様をさらけ出した。
 そして、しばらくの間、目を閉じて黙っていたが、やがてゆっくりと目を開けて呟いた。
「……この泉、魔法がかけられてる……」
 泉の中心にたたずむ亜緒の姿は、どこか神々しく映った。
 制服姿にもかかわらず、ただの少女には見えなかった。
「……湧き出るのを、わざと邪魔してる……」
「! それって……」
 勇が亜緒の言葉に反応するより、わずかに早く。
 何かが来た。
 その何かは、泉の中心にいた亜緒を貫いていった。
 泉の中に力無く倒れると、亜緒を中心として、泉が赤く染まっていった。
 頭が理解するよりも先に身体が動いていた。
「おおぞらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 なりふり構わず泉に飛び込み、亜緒に駆け寄ると、亜緒は青い顔で何とか笑いかけてきた。
 腕を押さえて、何とか笑っていた。
「ごめ……ちょっ、油断してた……」
 亜緒を支える腕が、思わず震えた。
 勇の中に、一つの予感があった。
 また、失ってしまうような予感が。
 そのとき、ふと思い出した。
「っ、大空! ガディスさんのとこに戻ろう!」
 そう。彼女は自身の怪我を治していた。
 その彼女なら、亜緒の怪我も治してくれるはずだと思った。
 けれど、亜緒は血にまみれた手で勇の腕を掴んでそれを止めた。
 掴んだ腕に血が付いた事をお互い気にする余裕がなかった。
「佐伯く……まだ、だめ……終わって、ないから……」
 勇にそう訴えると、亜緒はよろよろとふらつきながらも立ち上がった。
 慌てて、ふらついている亜緒を支えてやると、亜緒はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「……ここの、魔法……解かないと、水が……」
「そんなの後で良いから! それよりも、早くその怪我を……」
 勇の言葉に、亜緒は必死で首を横に振った。
「だって……行って、も、仕方ないじゃないっ! それに……私、が、やら、ないと……」
 勇の腕から逃げるように、亜緒はふらふらと歩き出した。
 そして、泉が湧き出ている場所まで行くと、血の付いた手で胸元の紋様に触れた。
 その途端、包み込むような淡い光が辺りに広がった。
 淡い光が徐々に弱くなっていくと、亜緒はまたその場に倒れ込みそうになった。
 けれど、今度は勇がその身体を支えた。
「……大空……」
 小さく呟いた勇の声も、亜緒にはもう届いていなかった。
 気を失っているのだろう。小さく呼吸をしてはいたが、意識はもうなかった。
「……何で、そうやって無茶するんだよ……」
 悔しそうに呟いたその言葉は、亜緒に届くことはなかった。

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