第五章――青き夢の終わるところ

「……まさか、一日で二度もこれだけの大怪我を負って帰ってらっしゃるとは思いませんでした……」
 亜緒の手当てを終えたガディスが小さくぼやいていた。
 ぼやきたくなる気持ちも十分わかる。
 もう少し遅かったら死んだかもしれない怪我をしたあと、止めるのも聞かずに飛び出して、帰ってきたらまた全身傷だらけで帰ってきたのだから。
「すみません……なんか、俺が引っぱってったり、突っ走ったりしたせいで、大空に怪我させて……」
 勇がもう少し考えて行動を起こしていたら、こんな怪我はしなかったかもしれない。
 けれど、ガディスは小さく笑って首を横に振った。
「いいえ。佐伯様のおかげで、これだけ早く片づいたのですから、むしろ感謝しています」
 亜緒があれだけの怪我をしたのは勇のせいかもしれない。
 だが、勇のしてきた事は無駄ではなかった。
 照れくさそうに顔を背けている勇を眺めながら、小さく呟いた。
「佐伯様のおかげで、姫様も成長出来ましたし……」
「? 今、何か言いましたか?」
 勇が聞き返すと、ガディスは「いいえ」と答えた。
 変わらぬ笑顔でいるガディスに違和感を覚えるが、それ以上問いつめる気はなかった。
「そういえば、ガディスさん」
 ふと思い出したように、勇が口を開いた。
 その言葉に対しても、ガディスは変わらない笑顔を浮かべていた。
「ガディスさんって、ただの巫女じゃないですよね?」
「……何故、そう思われたんでしょうか?」
 ガディスは勇の問いかけに否定もせず、そう尋ねた。
「何故って言われても……」
 しばらくの間考えていたが、やがてゆっくりと言葉を続けはじめた。
「……ただの巫女にしては知りすぎてるし、自分の怪我は跡も残さず消したのに、大空の怪我は手当てするだけで、大空もガディスさんが傷を治せる事知らないみたいだったし……」
 勇とは違う世界に済む巫女だからと思って、あまり気にとめていなかったが、よく考えて振り返ってみると、おかしいところがいくつかあった。
 ガディスは相変わらずやわらかい笑顔を浮かべて、勇の言葉を聞いていた。
 そして、小さく頷いた。
「佐伯様のおっしゃる通りです」
 もう隠すつもりもないのか、それとも最初からそんな気がなかったのか。
 ガディスは真実を、口にした。
「おそらく、想像がついてらっしゃるとは思いますが、私はこの国を創った女神です」
 ガディス……女神ブルー・エターナリアは、勇の目の前にいた。
 さして驚いた様子もなく、勇は真っ直ぐに女神を見ていた。
「女神は英語で『goddess』だってことを思い出したから、なんですけどね」
 ガディスがただの巫女ではないように感じて、それなら何者なのかと考えはじめたときだった。
 ふいに、思い出した。
 それは本当に偶然だった。何故そのタイミングで思い出せたのか不思議なくらいだった。
 けれど、勇は『goddess』が『女神』だと思い出した。
「……その通りです。では、私が『女神』になる前は何者だったかも、おわかりなんですね?」
「詳しくはわかりませんけど。大体は」
 勇は女神の問いかけに、頷いた。
「私は、あなた方のいる時代よりも、もう少し先の未来の地球から参りました」
 勇が『goddess』に気づいたとき、もう一つの事に気づいた。女神の名前『ブルー・エターナリア』
 ブルーは英語の『blue』、エターナリアは『eternal』から来ているのではないかと。
 『goddess』『blue』『eternal』と偶然がここまで続く事はそう起きる事ではない。
 そう気づいたときから、予想は確信へと変わっていった。
「私のいた未来は、悲惨な世界でした。空は雲に覆われ、空気は汚れ、争いは絶えず……光が見えなかったんです」
 淡々と語るその表情には、もう笑顔はなく、うっすらと影が落ちていた。
 彼女が見ていた未来が一体どんなものだったのか、勇には想像出来なかった。
「……その世界で生きていて、ふと思ったんです。空が暗いから争い続けるのではないかと。もしも青空が続いていたら、争いは起きないのではないかと……」
 青空に、平和なイメージを受けるのは何故だろう。
 その空の下では、誰もが幸せなわけではないはずなのに。
 同じ空の下で、苦しんでいる人もいるとわかっているのに。
 それでも、青空を見ると、どうして平和だと思ってしまうのだろう。
「自分の国を平和にしようとするのではなく、平和が永遠に続く国を創ろうとしたんです……」
 どうして自分の国を捨てたのだろう。
 どうして気づかなかったのだろう。
 振り返れば、後悔は数え切れないほどあった。
 けれど、それに気づいたときには、もう遅かった。
「国を創った時点で、私は『人間』ではなくなりました。私は一人の『神』になってしまったんです」
 女神は、望んで神になったわけではなかった。
 ただ、平和な国が欲しいと願っただけのはずだった。
「長い間『女神』として、この国を見ていました。けれど、争いは繰り返されます。空がどれだけ青くても、争いは起きるんです」
 彼女がどれだけの間、そうやって国を見ていたのかわからない。
 何を思って、国を見ていたのか、わかるはずがなかった。
 それでも、一つだけわかっていた。
「……争いを、止めたかったんですね?」
 勇のその言葉に、女神は、小さく頷いた。
 その瞳は、悲しみに似た色をしていた。
 今も昔も、女神の願いは一つだった。
 ただ、平和でありますように、と。
「欲のある者が、権力を持つから、だから争うのだと思って……自分のためではなく、人のために、権力を振るえる者が、上に立てばと……」
 女神が亜緒に王位を与えた理由は、簡単だった。
 他人を思う心。
 人を思いやれる誰かに、王位を継いで欲しかった。
 そうすれば、争いは消えるのだと思っていた。
 醜い争いがなくなってくれるような気がしていた。
「……私のわがままのせいで、姫様にはつらい思いをさせてしまったと思っています」
 王位を与えられた少女は、全てを失った。
 そして、唯一手元に残っている自分の命でさえ狙われていた。
 王位を与えられたせいで。
 少女を選んだ女神は、一体どれだけ自分を責めたのだろうか。
「ガディスさんは、悪くないですよ」
 気休めにもならないかもしれない。
 それでも、勇は心からそう思って口に出した。
「国に平和であって欲しいと思うのは誰だって同じだし、自分のために権力を振りかざすような人に、王位を継いで欲しくないと思うのだって当然なんだから」
 何一つとして間違ってはいないのだから。
 平和を求める事は間違いではないのだから。
 例えその途中で傷ついたとしても、その痛みにずっと泣き続けるわけではないのだから。
 傷はいつか必ず癒える。
 勇は、そう伝えたかった。
 その想いが伝わったのかはわからない。
 けれど、女神は微笑んでいた。
「……姫様が出会ったのが、あなたで本当によかった」
 何を思ってその言葉が出たのか、勇にはわからないが、それは間違いなく感謝の言葉だった。
 偶然だったが、亜緒と勇が出会った。
 その偶然が、二人を成長させた。
 そして、成長したおかげで、国は平和になろうとしていた。
「もうすぐ目が覚める頃です。姫様の所に行ってあげてください」
 何もなかったかのように、ガディスは笑顔で勇の背を押した。
 そして、最後に小さく呟いた。
「……佐伯様、お元気で……」
 呟きは勇の耳にわずかに届いたが、勇が聞き返す前に「早く行ってあげてください」とガディスがせかした。
 結局聞き返せないまま、勇は亜緒の元に向かった。
 亜緒は全身を刺されはしたが、それほど深い傷ではなかったらしい。
 だが、その前に負った怪我の出血量が多かったせいで、危なかったという。
 とりあえず、今は安静に寝ているのが一番だということだった。
 そんな事を思い出しながら、勇は亜緒が眠っている部屋の扉を開けた。
「大空、もう起きてるか?」
 口から出た言葉は、残念ながら最後まで紡がれる事はなかった。
 目に飛び込んできた情景に、思わず言葉を失った。
「? 佐伯くん、どうかした?」
 呆然としている勇を、亜緒は不思議そうに見ていた。
 亜緒は、安静にしているどころか、本を片手に、部屋の真ん中に立っていた。
「おま……っ、安静にしてろって言われただろ? 立ってて良いような怪我じゃないってわかってるのか?!」
 腕や足には包帯が巻かれ、顔も青い。とても動いて良いような状態には見えなかった。
「平気よ。そんなことよりも、どうしたの? 何か私に用事?」
 とても平気そうには見えなかった。
 けれども、無理矢理寝かせるのは無理だろうとわかっていた。
 だから、念のため勇は亜緒の隣で、支えるように立つ事にした。
「いや、別に用事はないんだけど……ガディスさんが『そろそろ目が覚める頃だから行ってあげて』とか言うから」
 勇は言いながら、そういえば亜緒は彼女が女神だと知っているのだろうかと疑問に思った。
 けれど同時に、亜緒には教えない方が良いのだろうかとも思った。
 自分を選んだ女神が、すぐそばにいると知ったら、亜緒は一体どうするのだろうか。
「……そっか。ガディーが、ね……」
 わずかに俯いて、亜緒は小さく呟いていた。
 何故かその表情は硬かった。
「……大空?」
 どうしてガディスの名前が出ただけで表情が硬くなったのか。
 不思議に思い、声をかけてみたが、亜緒は「何でもない」と小さく首を横に振った。
「ただ、さすがよくわかってるな、と思っただけよ。気にしないで」
 その言葉は、どこか不思議で……
 何かが、引っかかった。
 もしかして、とわずかにだが思った。
「ひょっとして、大空は……」
 勇の口から、言葉は勝手に出てきていた。
「知ってるのか? ガディスさんのこと……」
 亜緒は少し驚いたように勇の顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
 それは間違いなく『イエス』という返事だった。
「佐伯くんも、気づいてたんだ?」
 ゆっくりと言葉を紡ぎながら、亜緒は穏やかに微笑んでいた。
「だって、ね。ただの巫女のはずなのに、ずっとそばにいたんだもの。本来の仕事もせずに、そばにいてくれたの。だから、おかしいなって思ったの」
 亜緒の事を心配するあまり取った行動は、自らの正体に気づかせてしまう事になった。
 けれど、女神自身は気づいていないのだろう。
 正体を気づかれていることに。
「……長い間そばにいたんだもの。簡単に気づけるわよ。女神だってことくらい」
 穏やかに言葉を紡ぐ亜緒に、勇は疑問を覚えた。
 亜緒は、王位を得たから、全てを失った。
 女神に選ばれたから、失ったのだ。
 それでは、彼女は女神の事をどう思っているのだろうか。
 前に「どうして私を選んだんだろう」と亜緒は言った。
 亜緒は、女神を……ガディスをどう思っているのだろうか。
「……大空は、ガディスさんの、こと……」
 顔に出ていたのかもしれない。
 勇が全て言い終わる前に、亜緒は笑顔を浮かべて答えた。
「大丈夫。恨んでなんかいないから」
 無理矢理明るく振る舞っているわけでも、嘘をついているわけでもなさそうだった。
 亜緒は、本当に、そう思っていた。
「……最初は、確かに恨んでたわ。私なんかを選んだせいで、たくさんの人が死んで……でも、ガディーが女神だって気づいたときにわかったの。本当に申し訳なさそうな表情を浮かべたり、親身になってくれたりしてくれたから、わかったの」
 それ以上、何も言わなかった。
 けれど、それでじゅうぶんわかった。
 それだけで十分通じた。
「けどさぁ……」
 納得いかないような表情で、亜緒を見た。
 いきなりそんな目で見られて、亜緒はわけがわからないという顔をしていた。
「どうして女神は自分を選んだんだろうって、言わなかったっけ? 女神の正体わかってるのに」
 たしかに、そう言った記憶が亜緒にもある。
 亜緒は思わずうつむき、口ごもった。
「だ、って……わかってても、耐えられないわよ……私が王位を、継いだから、たくさんの人が犠牲になって……」
 そこまで言ってから、ちらりと勇の方を見て、それから視線を逸らすように顔を背けた。
「……それに……どうして女神を信じてないのかって聞かれたとき、そんな本当の事、言えなかったし……」
「じゃぁ、本当はどうして信じてないんだ?」
「……」
 しばらくの間、なんとなく答えづらそうに黙っていたが、やがて横目でちらっと勇を見た。
「……佐伯くん……わかってて、聞いてる?」
 勇は何のことだかわからないとでも言いたげに肩をすくめた。
 その仕草が実にわざとらしかった。
「…………別に、佐伯くんを騙すつもりじゃなかったのよ?」
 小さな声で、弁解するように言葉を紡ぎはじめた。
 けれども、勇は笑顔を浮かべて「何が?」と尋ねた。
「だか、ら……信じてないわけじゃないけど、あんまり身近にいるから、女神として見れなくて……でも、そう答えたら、女神の正体に、佐伯くんが気づくかなと思って、黙ってて……」
 まさにしどろもどろと言う言葉がぴったりだった。
 その様子があまりにも必死で、おかしくて、勇は思わず吹きだした。
「ちょっ、佐伯くんが聞くから答えたのに、それってどうなのー?!」
 亜緒が怒るのも仕方ないだろう。
 わかっているのに、亜緒をからかっていたのだから。
 亜緒もからかわれているとわかってはいた。
 それでも、罪悪感の方が強くて、つい必死になって答えてしまっていた。
 やがて、必死に笑いをこらえながら勇が口を開いた。
「悪い……でも、あんまり必死だから、つい……」
 言い終わっても、何がまだおかしいのか、必死に笑いをこらえていた。
「……佐伯くんのばか」
 そこまで笑うことないのにとでも言いたげに、亜緒はそっぽを向いてしまった。
 それでもまだ笑いが止まらなく、勇は必死にこらえながら、声をかけた。
「大空、悪かったって、でも、お互い様だろ」
「……」
 そう言われてしまうと、亜緒も言い返せない。
 たしかに、亜緒が嘘をついたから、勇はこういう行動に出たのだろう。
 そこまで考えると、亜緒は小さく漏らした。
「……佐伯くんって、ずるいなぁ」
 思わず、ため息と一緒に呟いた。
「? 何がずるいんだよ?」
 勇の問いかけに、亜緒は背中を向けたまま答えた。
「……なんだかんだで、勝てない」
 その言葉の真意はわかりづらく、何が勝てないのか全くわからなかった。
 少なくとも、勇は今まで亜緒に勝ったと思った事はなかった。
「一回くらい、勝ちたかったなぁ……」
 独り言のように呟くと、亜緒は振り返って、真っ直ぐに勇を見た。
 精一杯の笑顔を浮かべて、はっきりと言った。
「佐伯くん、さようなら」
 亜緒の口から発せられたその言葉の意味を、理解するよりも先に、勇の足下が光った。
 胸元の紋様が淡い光を放っていた。
 勇の足下の光と同じ物だ。
「今ちょうど時空の歪みと私の力が安定してるから、無事に帰せるの。この機会を逃したら、またしばらく歪みが安定するのを待たなきゃいけないから……」
 勇に質問する暇を与えようとせずに、亜緒は聞いてもいないことを次々と口にした。
「別に、歪みが安定してなくても、帰せない事はないんだけどね。無理にやると、他の時空にも影響が出たりするから」
「おい! 大空!」
 勇の声がまるで聞こえていないかのように、亜緒はしゃべり続けた。
 その様子は、無理をしているようにも見えた。
「心配しないでも大丈夫。絶対、無事に送り届けるから」
 何かをこらえているかのような笑顔。
 どう見ても無理をしているようにしか見えなかった。
「大空! 俺はそんな事聞いてない!」
 勇は亜緒の腕を掴むと、真っ直ぐに亜緒の顔を見た。
「何でいきなり俺を帰す事になってるんだよ?! 俺は早く帰りたいなんて一言も言ってないだろ?!」
 その剣幕に、驚いたように目を見開いていたが、やがてまた同じ笑顔を浮かべた。
 見ていて、痛々しい笑顔。
「この機会を逃したら、次に歪みが安定するのはいつだかわからないの。それに、佐伯くんはここの人間じゃないから……やっぱり、早く自分の世界に帰らなきゃ」
 所詮、二人が住む世界は違う。
 大した理由もなく、異なる世界にいるなんて、世界の摂理に反する。
 だから、出来るだけ早く、元の世界に帰すべきなのだ。
「……それなら、せめて……無理に笑うなよ」
 納得しようにも、頭では出来ても、気持ちがついていかなかった。
 けれど、無理矢理押さえ込むようにして、それを誤魔化すように、小さく呟いた。
 泣きそうな顔で、無理して笑う亜緒に、笑うなと願った。
「だって、やっぱり、笑顔で別れたいから」
 だからといって、無理矢理笑顔を浮かべる様は、痛々しかった。
 勇の願いは、何一つ叶う事がなかった。
「……なら、せめて、大空の、本当の名前……」
 その名前が、違う世界に行くための名前だとは聞いていた。
 けれど、本当の名前は知らなかった。
 知っている名前は、偽りのもの。
 それでも、亜緒はその願いも受け入れてくれなかった。
 小さく首を横に振った。
「佐伯くんの前では、私は『大空亜緒』だったから。それ以外の誰でもない。姫ですらないの」
 本当の名前を聞けば、この国の者は誰しも『王位を継いだ者』だと思うだろう。
 誰も一人の少女とは思ってくれない。
 そんな名前よりも、王位とは関係のない一人の少女として見てくれる名前を、その名前だけを知っていて欲しかった。
 勇には、『王位を継いだ者』ではなく『一人の少女』として見ていてほしかった。
「……大空……」
 亜緒の気持ちに気づいたのか、勇は小さくその名を呟いた。
 勇のその様子に、亜緒は微笑んでいた。
「佐伯くんに会えて、大空亜緒になれて、本当によかった」
 微笑んでいる亜緒の目尻には、わずかに涙が浮かんでいた。
 勇の足下がひときわ明るく光り出した。
「これで、本当にお別れだね……」
 時間が来た。
 亜緒は勇から離れるように数歩下がると、静かに胸元の紋様に触れた。
 別れる前に、もう一言、何かと思った。けれど、言葉が何も出てこない。
 勇は、無理矢理声を絞り出すように、もう一度その名を呼んだ。
「大空……っ!」
 おそらく最後になるだろう勇の声に、亜緒は泣きそうになりながら、笑顔を浮かべた。
「……大空じゃなくて、亜緒って呼んで欲しかったなぁ……」
 その瞬間、勇の前は真っ白になった。
 瞳に最後に映ったのは、お互いの泣きそうな顔だけ。

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