日も傾き、空の青が橙に染まろうとしている時刻。城下町は夕飯の買い出しに来た主婦や学校帰りの学生で賑わっていた。その賑わいの中、一人うつむき歩く少女の姿があった。
「……やだなぁ……」
 毛先に癖のあるピーチピンクの髪を揺らしながら、マリュは小さく息を漏らした。アプリコットの瞳を伏せるその表情は、暗く沈んでいた。
 理由はどうしようもなく単純だった。
 新学期が始まりクラス替えがおこなわれたが、仲の良かった子たちとクラスが離れてしまった。ただそれだけ。
「うぅー……しかも初日から体育あったし……」
 今日一日を振り返りながら、マリュは更に表情を曇らせていった。
 体育の時間、顔面でボールを受け取りそのまま保健室送りになったのだ。残念なことに彼女の体育の成績は毎年悲惨なものだった。
「しかもみんな見てたし……やだぁー明日から恥ずかしくて学校行けないーっ!」
 相当恥ずかしかったのか、顔を手で覆い隠しめそめそと泣き出した。
 夕方の城下町である。
 人通りは多い。
 はっきり言って、そんなところで突然泣き出せば嫌でも目立つ。
 しばらく泣いてからようやくその事実に気付いたのか、マリュは慌てて顔を上げた。予想通り周囲の視線を一身に浴びていた。
「っ……!」
 まだ目尻に涙を浮かべたままだったが、それどころではなかった。涙を拭うことも忘れ、マリュは真っ赤になって逃げ出した。
 涙で視界が悪くなっている上に、恥ずかしさのあまり俯いたまま、なけなしの運動神経を駆使して全力で走った。
 だが、残念なことに大方の予想から外れ、転ばずに壁にぶつかることになった。
 鼻からぶつかったマリュは「ぶっ」と情けない声を上げていた。
 真っ赤になった鼻を押さえながら、壁を見上げるとそれはただの壁ではなく……
「嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 体格の良い、知らないお兄さんだった。
「あ、えっと、大丈夫ですごめんなさいっ!」
 真っ赤になって必死に頭を下げるマリュに、男は困ったように笑ってみせた。一見恐そうな顔をしてはいるが、笑顔には優しさがにじみ出ていた。
「謝んなくてもこっちは平気だから心配すんな。それにしても……」
 男はマリュの頭を軽く(のつもりだったが、マリュにしてみれば豪快に)撫で回し、不思議そうに見下ろした。あまりに不思議そうに見られるので、マリュはどこか変なところでもあるのだろうかと自分の身体を見回してた。
「その細腕でよくやってみようと思ったな……ま、俺はそういうチャレンジ精神好きだけどな」
 最後に笑顔を浮かべたまま「頑張れよ」とだけ言い残し、男はマリュに背を向けた。
 そのときになって、ようやくマリュはここが何かの列の最後尾だと言うことに気付いた。
「……何の列、だろう?」
 少しの好奇心から男の背中越しに前を見てみようと思ったが、十三歳の少女がどれだけ背伸びしようとも屈強な男の背中以外を視界に入れることは出来なかった。
 前に並んでいる男に尋ねれば済む話なのだが、それを出来るマリュではなかった。聞くは一時の恥とはよく言ったものである。
「並んでいれば、きっと何の列かわかるよね。たぶん」
 間違ってはいないが、明らかに何かを間違っている。
 マリュが必死に考えている間に、列は更に伸びていった。着々と屈強な男ばかりが増えていったことをマリュは知らない。むしろ、並んでいる人物はマリュ以外全員が屈強な若者であった。
 何も知らないマリュは前に並んでいる男の背中を見ながら、身長いくつだろうとか、お父さんよりも力ありそうだなぁと考えていた。背中以外見えないから他にすることがなかったのだろう。
「あ」
 背中以外の物が目に入った時、マリュは小さく声を上げた。
 少しはねたダークネイビーの髪。気の強そうな灰色の瞳。マリュと同じくらいの年頃の少女が描かれた張り紙。文字が書かれていたが、視力の少し弱いマリュには読めなかった。けれどそんなこと問題じゃなかった。
「ライラ……」
 あの頃よりもずいぶん成長していたが、間違いない。張り紙に描かれている少女は、再会の約束を交わした幼なじみだった。
 幼なじみの名を小さく呟きながら、嬉しそうに張り紙を眺めていた。
 彼女のことを忘れたことは一度だってない。小さい頃に交わした約束がいつか本当になるとずっと信じてきた。今も確かに友達はいるけれど、マリュにとっての親友は今も昔もライラだけだった。
 普段は表に出ない気持ちが、たとえ本物じゃなくても、久しぶりにライラの顔を見たことで溢れてきそうになる。
 けれど、その張り紙がふいに人の頭に隠れて見えなくなった。
「あーーーーーーーーーーーー!」
 ライラの顔しか見ていなかったマリュは思わず声を張り上げてしまった。
 張り上げてから気付いた。今の状況に。
 気が付くと列は随分進んでいて、最後尾だったマリュは前から数えた方が早いくらいの位置に来ていた。列の一番前では何かが行われているらしくそこを囲むように人だかりが出来ていた。列はもうその人だかりにまで来ていた。自然、大声を出せば嫌でも人目を集める状況になっていた。
「ぴっ!」
 逃げ出したい衝動に駆られたが、そうも出来なかった。逃げだそうとすれば、列から抜け出さなくてはいけない。ここまで来て列を抜けると嫌でも目立つ。せめてもっと列の後ろの方だったなら逃げられたのにと思ったが、そうであったらこんなに目立たなかったのだから考えるだけ無意味だろう。
 仕方なくマリュは真っ赤な顔で俯いたまま耐えることにした。
「……嬢ちゃん、どうしたんだ?」
「なんでもないんです、忘れてくださいぃ……」
 前に並んでいた男が優しく声をかけてくれたが、それさえもつらかった。ただひたすらに恥ずかしかった。
「まぁ、そう言うなら良いんだけどな」
 軽く頭を撫でながら男は「気にすんな」と小さく付け足してくれた。
 なんだか泣きたくなって、慌てて頭を横に振った。ここは泣くところじゃなくて、お礼を伝えるところ。
 顔を上げて言葉を伝えようとしたときだった。
「はい残念でしたー。それでは次の方どうぞ」
 顔を上げたマリュの目に映ったのは、背中だけ。どうやら順番が回ってきたらしく、前に並んでいた人は広場の真ん中に立ってパフォーマンスをしていた。
「……え?」
 この町の、いやこの国の人なら誰でも知っているだろう場所。観光スポットにさえなっている場所。それがこの広場。そこで男は鉄パイプを素手で曲げていた。あの鉄パイプは持参なのだろうかとどうでもいいことを考えもした。
 問題はそこではない。
 現実逃避をしかけていたマリュは目の前で繰り広げられる光景で我に返った。
 この町並にはそぐわない、どこか異彩を放つ一本の剣。
 ここは、伝説の勇者が剣を突き立てた場所。
 そして目の前で繰り広げられるのは、その剣を引き抜こうとする屈強な男。それを囲み眺めている人だかり。この国の者なら誰もが知っている伝説。
 伝説の勇者の剣を引き抜いた者こそが、真の勇者となる者だと。
 おとぎ話のような勇者物語。けれど本当の歴史。
 鉄パイプを曲げた彼でさえも、勇者の剣を抜くことが出来なかった。深く突き刺さっているようには見えないのに、少しの力で簡単に抜けそうなのに。それなのに未だ誰も抜いたことがない。見た目に騙され挑戦した者は数え切れない。それなのに剣は、勇者が突き立てたときの姿のまま。だからこそ、誰もが信じている。この剣には力が宿っていると。引き抜く者が真の勇者だと。
「はい、それでは次の方……っと、これは意外だ! 可憐な少女の挑戦です!」
「へぁ?!」
 城に仕えてるのだろうとわかる上等な服を着た男が余計なことを言った。その言葉を合図にどよめきが起こる。
 何を言ってるか聞き取れなくても、はっきりとわかる。あんな子に出来るはずがない。そんな雰囲気の中でマリュは剣の前に立たされてしまった。
「……え……ぅ……」
 残念なことにマリュの腕力は同い年の少女の平均よりも低い。当然ながら素手で鉄パイプを曲げることは出来ないし、道具を使っても出来ないと思う。ましてや誰にも抜けない勇者の剣を抜くことが出来るはずない。勇者になれるなんて微塵も思ってはいない。
 恥をかくのは必至だ。
 だからと言って何もせずに逃げ出すのも恥にしかならない。おそらくこちらの方が恥ずかしさは上だろう。ひょっとしたら勇者の剣を目前に逃げ出したと有名になるかもしれない。それなら、まだ挑戦したけど無理でしたと言った方がずっと良い。
 そう。こんなもの抜けなくて当然なのだから。
「……よし」
 泣きそうになりながらも考えた末に、マリュはおどおどと剣に手を伸ばした。
 どうせ何をしても恥にしかならないのなら。せめて力の限り引っぱってやろう。
 目を閉じてゆっくり息を吐くと、マリュの意識から周囲の気配が消えた。その瞬間、マリュは持てる限りの力を込めて剣を引いた。
「っ、ぅわっ!」
 力を込めすぎたのか、反動でマリュは後ろにひっくり返ってしまった。
 したたかに頭を打ったマリュは、頭を抱えてしばらくのたうち回っていたが、はたと思い出して慌てて起きあがった。いくらなんでも引き抜こうとして転ぶなんて恥ずかしすぎる。これだけ人目があるのだから笑われて当然……そう思っていた。
「……あれ?」
 まだ少しふらふらするせいで周りの様子がよく見えていないが、笑われてはいないらしい。それどころかおかしなくらいの静寂。あまりの馬鹿さ加減に呆れてものも言えないのだろうかと首を傾げかけたときにようやく声が聞こえた。
「ななななーーーーーんと! 驚きです! 勇者の剣がついに引き抜かれましたああああああああああああ!」
 進行役を務めている城の使いがようやく口を開いた。進行役を務めるだけはあり、誰よりも早く我に返ったあたりはさすがである。
 だが、残念なことに引き抜いたマリュ自身が状況を把握出来ていなかった。
 傍らに転がっている勇者の剣に全く気付かないせいで。
「ではお嬢さん。お名前をどうぞ?」
 そう問われてもマリュは「剣を抜こうとした人全員の名前を記録しなきゃいけないのかな。大変だなぁ」とぼんやり考えていた。だからさして考えもせずに答えた。
「マリュです。マリュ=グラウニーです」
 囁くようなソプラノが人だかりまで届くはずもなく、それを補うように司会役の男は声をまた張り上げていた。
「更に驚きなことにーっ! なぁんと少女の名はマリュ=グラウニー! 二代目勇者マシュ=グラウニーと同姓だあああああああ!」
「え、えっと?」
 状況をつかめずに困り果てているマリュの頭にあったことはせいぜい「お父さんって勇者と同姓同名だったんだぁ」程度だった。先代勇者は知名度が高い変わりに、娘には勇者だと知られていないらしい。
「ちょーっと待ったあああああああああああ!」
 何もわかっていないマリュを置いて話が勝手に進んでいきかけたときだった。唐突に待ったがかかった。
 声の主はマリュの一つ前に並んでいた、あの鉄パイプを曲げるパフォーマンスまで見せた男……
「あ、えっと……鉄パイプの人!」
 彼を何と呼べばいいのかわからないマリュは、素直にインパクトの強かった鉄パイプ曲げの人と呼んだ。けれども、その呼び方はお気に召さなかったらしく鉄パイプの人は地団駄を踏んで「ちがーう!」と叫んだ。
「おーっと! 先ほど剣を抜けずに終わった鉄パイプの人の再登場だー! 一体何のご用か伺ってみましょう! はい、どうぞ!」
 当の『鉄パイプの人』は進行役に言葉を求められ一瞬目を見開いたが、すぐにマリュを指さしこう言った。
「こんな嬢ちゃんが勇者なんざ何かの間違いだろ! 魔王どころか魔物すら倒せるとは思えねぇ!」
 剣を抜いた者を認めない。それは勇者伝説さえも認めないと言っているようなもの。けれど実際広場に集まった多くの人がこの状況を認められずにいた。こんな少女が勇者だなんて、誰が信じられるだろう。
 勢いで進めていた進行役もさすがに少し困ったらしく、自分の髭を撫でて黙っていた。
 勇者本人はと言うと、今になってようやく自分が剣を抜いたことを理解したところだった。
「ちょ、待ってください! 私、勇者なんて無理ですムリムリ! だって運動全然出来ないもんっ!」
 理解したあとは早かった。真っ赤な顔で首を横に振り、勇者の剣から逃げるように離れていった。その行動にはさすがの鉄パイプの人も呆気にとられた。
「いや。自分でそう言うなら抜くなよ」
「だって逃げるタイミング逃しちゃったんだもん! それにまさか抜けるなんて思わなかったんだもん!」
 この場からどうにかして逃げ出そうとするマリュの肩を慌てて掴み、進行役は叫んだ。せっかく見つけた勇者を逃がしては上司に何と言えば良いのかわからない。
「そーれではそれではっ! 何やら皆々様御不満がお有りのようなのでー! 勇者バーサス鉄パイプの人を行いましょーっ! この筋肉隆々の大男を可憐な少女が倒せば皆様文句なしでしょっ!」
 こんな突発企画をやって許されるのか不安ではあったが、勇者に逃げられるよりはマシだと腹を括ったらしい。たとえ城で働いていても、やはりクビになることはあるらしい。
 進行役のクビは何とか繋がったが、そのとばっちりは見事マリュにやってきた。
「え、あの、ちょっ……な、なにをすれって言うんです、か?」
 不安げな表情で必死に声を絞り出す様はあまりにも可哀想だった。けれど、進行役の彼は家庭を持つ身である。見ず知らずの少女のことよりも、自分の職の方が大事だった。
「大丈夫っ! 木剣でやるから大怪我はしないっ」
 少女にしてやれるのはせいぜいこの程度。顔に傷が付いてお嫁に行けないなんてことにはならないようにするのが精一杯。
 その言葉でマリュは本気で泣きたくなってきた。
 生まれてこの方、剣を握ったことなんて全くない。抜くために握った勇者の剣が初めてだ。そうなると、至極当然ながら剣を振るったこともない。それなのに、鉄パイプの人に勝てと言うのだから無理な話だ。
「……あれ? ひょっとして勝たない方が、良いんじゃない?」
 考えの途中で思いついたことを小さく声に出してみた。声に出すとなおさらはっきりとその思いつきが正しいような気がしてくる。
 この勝負でもしも勝てば勇者にならざるを得なくなる。けれど負ければ……痛いかもしれないが、勇者にはならないで済むのではないだろうか。どちらの方が良いか、それは考えるまでもない。
「よし。それじゃあ嬢ちゃん、準備は良いか?」
 顔を上げると、鉄パイプの人が木剣を構えて正面に立ちふさがっていた。恐くはあるが、さっさと負けてしまえばこれ以上恥ずかしい思いをしないで済む。そう思い、頷きかけた。
「……っ、ちょっと待って!」
 マリュは頷きかけていたにも関わらず慌てて首を横に振った。
「せ、制服でやらないと、ダメ?」
 見ると短いスカートの裾を真っ赤な顔で押さえていた。制服が汚れることよりも、そちらの方が心配らしい。今までの流れを全く無視した発言にあたりが静まりかえったが、言った本人はいたって真面目だった。
 鉄パイプの人がちらりと進行役を見ると、彼は慌てて声を張り上げた。
「それではー……着替えのため一時休戦いたしましょーっ! 再開は区切りよく一時間後で!」
 言い終わると同時に彼はマリュの腕を掴んで走り出した。城門までまっしぐらだった。

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