すでに空が橙から夜の闇へと姿を変えようとしているこの時間。マリュは何故か自宅ではなく城の中にいた。
 ナリアが言うには「あのままでしたら、状況を理解した野次馬にもみくちゃにされてしまいましたよ?」とのことだが、それなら大人しく家に帰れば良いだけのような気がする。
 広く長い廊下を歩く必要は全くないと思うのだが、肝心のナリアが「少し用事が出来てしまって」と言って姿を消してしまったのだ。だからと言って、今マリュが一人だと言うわけではない。ナリアと入れ替わりに現れた一人の男。仕立ての良い服をきっちりと着込み、雰囲気からして厳格な、明らかに『家臣』である男。残念ながら、マリュが簡単に声をかけて良いような雰囲気ではなかった。
 大人しく何も言わずに付いていったが、どこに行くのかも、いつになったら帰れるのかもわからない。正直、不安で仕方なかった。
 あまり遅くなると家族に心配をかけるんだけどなと思いながら、歩いているとぽんぽんと考えが浮かんでくる。そういえば、今日のことを話さなくては。勇者になったと言って信じてもらえるのか。信じてもらえても、卒倒されたりしないだろうか。思考をぐるぐると巡らせていると、「着きました」と低くよく響く声が降ってきた。
 顔を上げると、一際大きな扉がそこに佇んでいた。城の中にある扉はどれも重く大きく豪勢な造りだが、これはそのどれよりも抜きんでていた。
「……ここ、は?」
 声に出すつもりのなかった言葉が口からこぼれ出た。答えを求めていたわけではなかったが、家臣である男はわざわざ答えを返してくれた。
「玉座の間です。王様が是非に貴方にお会いしたいと……」
 思わずその言葉を聞き流してしまった。それくらい現実味のない言葉。
 数時間前まで何の変哲もない、この国に住んでいる普通の少女だった自分には現実と思えない言葉。まるで実感が沸かない。
 だから、扉がゆっくりと開くときの大きな音でようやく言葉の意味を理解出来た。
「えっ」
 何か言おうとしたはずだったが、目の前に広がる玉座の間の空気に圧倒され、息と一緒に言葉を飲み込んでしまった。
 空気がまるで違う。そんな大した違いがあるはずないのに、一歩踏み入れるのにでさえ躊躇するほどに。
 小さく「やはり勇者でも、無理か……」と呟く声があったが、マリュの耳には届いていなかった。
「王様がお待ちです。どうぞ中へ」
 促され、戸惑いながらもマリュは玉座の間へと足を踏み入れた。自分が踏み入れる場ではないと思ったが、それ以上に「王様を待たせている」という言葉の方が強かった。
 このフェイラ王国における象徴であり、最高権力者である絶対的な存在。今、この国が繁栄しているのは勇者と国王のおかげであるとされている。国民にとっては勇者も国王もそれくらい大きな存在だった。
 けれどマリュは国王の顔をよく知らない。城下町に引っ越してきてすぐの頃に一度だけ式典を見に行ったことがあるが、幼かったことや遠くてよく顔が見えなかったこともあって、記憶が薄い。
 たしか、マリュの父よりも少し年上だったような気がする。父からそんな話を聞いた記憶があった。
 広く薄暗い玉座の間を歩きながらそんなことを考えた。考えごとをしていたからか、いつの間にか緊張も消えていった。その代わり、少し前を歩いていた家臣の背中にぶつかった。
「わっ?」
 慌てて一歩下がったマリュに、少しだけ振り返り「王様です」と小さく教えた。薄暗いので表情はよく見えなかったが、声は「何してんですか」と言いたげだった。
 教えられたマリュは迷いながらも、家臣の少し前に立ち、玉座を見据えた。
 薄暗いせいで、玉座のシルエットが見えるだけだった。けれど、たしかにそこに誰かがいる。
 自分から何か言うべきなのか、言葉を待つべきなのか困っていると、よく通る声が玉座から響いた。
「勇者の剣を抜いたと言うのは……」
 響く声はマリュの想像していたそれとは遠くかけ離れていた。
 それでも、相手が国王であるのは確かだ。いくらかの疑問を覚えつつも、マリュはゆっくりと言葉を探した。
「はい。一応、私です。マリュ=グラウニーと申します」
 思ってもいないことばかり続いたからだろうか。目の前にいるのが国王だとはっきりわかっているが、不思議なことに全く緊張していなかった。
 真っ直ぐに答えるマリュの様子を見ながら国王は淡々と言葉を続けていった。
「ではマリュ=グラウニーよ。勇者として、魔王討伐の命を引き受けてくれるな?」
「はい……ッ?!」
 頷きかけてから、ようやくことの重大さに気付いた。だが、時すでに遅し、だった。
「そうか。引き受けてくれるか」
 目の前の国王はマリュの様子に気付いていないのか、変わらない態度で話を進めていた。
「ちょっと待って! 魔王って、だって先代の勇者が倒したんじゃ……え、あれ? もう復活したの? え?」
 半分泣きながらも必死に状況を理解しようとしていたが、混乱した頭では理解が追いつきそうもなかった。思わず国王相手にタメ口になるほどに混乱していたのだから。
 マリュの少し後ろに控えていた家臣の男が慌てたように止めに入った。さすがに放っておけなかったのだろう。
「勇者様、王様の前ですので……」
 その声さえも耳に届かないくらい混乱しているマリュを国王は呆然と見ていた。けれどマリュの混乱がピークに達する前に、吹き出したように笑い出した。国王が。
「あはははははははははははは……お前……何も知らずに剣を抜いたのか? 魔王討伐についても張り紙があっただろう?」
 必死に笑いをこらえていたようだが、もうこらえもせず思う存分腹を抱えて笑う国王に、マリュは涙を浮かべた瞳で抗議した。
「抜いたんじゃなくて、抜けたんだもんっ!」
 収拾がつかなくなりかけた場で、何とかしようと唯一人頑張る姿があった。
「勇者様っ! 仮にも王様の前です!」
 国王と勇者を前にし、一人声を張り上げ止めに入った家臣を褒め称える人はいなかった。
 けれど張り上げただけはあり、マリュははたと思い出し、真っ青な顔で頭を下げた。
「申し訳ございませんっ! 王様に失礼なことを……」
 頭を下げて済む問題ではないとも思ったが、今のマリュに出来ることがそれ以外思いつかなかった。
「構わないから顔を上げてくれないか? 久しぶりに笑わせてもらって、こちらとしてはお礼を言いたいくらいなんだ」
 まだ声が笑っていたが、そんなことどうだってよかった。マリュは罪の意識でさっきとは違う意味で混乱していて、家臣は目の前の光景に目を疑っていた。
 もう土下座でもしようかと思っていたマリュの頭上から声が降ってきた。
「マリュ、だったか? 顔を上げなさい」
 国王の声が妙に近く感じ、思わず顔を上げるとそこに一人の男が立っていた。
 薄暗い中でも自ら光を放っているような金髪。優しく微笑むミントブルーの瞳。男と呼ぶよりも少年と言った方が正しいのかもしれない。マリュよりも二つ三つ年上だろうか。
「………………誰?」
 この場にいないはずの少年の姿に、マリュは思わず口に出した。その後ろで家臣が今までになく慌てていることも知らず。
 少年は気にした様子もなく、笑顔のままで言葉を返した。
「ウェルディナンス=フェイラ。フェイラ王国第二十七代目国王だよ」
「二十七代目、こくお……」
 オウムのように繰り返してみたが、最後まで発することはなかった。
 目の前にいる少年は間違いなくこの国の国王だった。
 確かによく見ればその頭上には王冠が輝き、着ているものも驚くほど上等なものである。それらが見えていなかったのは、マリュの思いこみのせいだった。
「……だっ、て……王様は、お父さんより年上、って……え、実は、そんなに上……?」
 驚きのあまり声が上手く出せなかったが、それでも何とか無理矢理に言葉を絞り出していった。
 微笑ましいものでも見るような笑顔で、国王はマリュを眺めていた。
「驚くのも無理はないだろう。先代は二年ほど前に亡くなっているからね」
 その言葉を聞くと、笑顔が今までとは違うものに見えてくる。
「亡く、なって……? そんなこと知らなかった……」
「当然だよ。関係者以外には伝わっていないからね」
 自分と同じくらいの年頃の国王を見ていると、不思議な気持ちになった。これは笑顔を浮かべたまま話すような内容だろうか。
「十三歳の子供が王位を継ぎ、政治を全て行うと知れば国民も不安だろう? だから十年ほど先代の死は秘密にしてくれと頼んだんだ。僕のわがままだよ」
 笑顔が悲しそうに、つらそうに見えるのは気のせいだろうか。
 父親の死を隠し、自分が王であることも隠し、つらくはないのだろうか。国民のため? 十五歳で、自分と二つしか違わないのに、どうしてそこまで国のことを考えられるのだろう。
 立派な王様だとか、そんな簡単な言葉でまとめたくなかった。
 この思いをどうやって示せば良いのだろう。
 少し考えると、ひどく単純な答えが頭に浮かんだ。単純だけれど、それがおそらく自分に出来ることの中で一番だろう。
「私、勇者やります。魔王を倒します」
 この人の役に立ちたい。
 国民のことをこんなに思ってくれる人に、言葉に出来ない気持ちを伝えるにはこうやって役に立つのが一番だと思った。
 十五歳の王は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔を浮かべてくれた。
「ありがとう。心から感謝する」
 なんだかくすぐったくなり、視線をそらすように少し俯くと、自分の胸元についたバッジが目に入った。ナリアが「お守り」だと言って貸してくれたのに、返すのを忘れていた。
 慌ててバッジを外すとマリュは顔を上げた。
「あのっ、これを貸してくれた女の子に会いたいんですが……」
 ナリアの名前を出しても通じるのか自信がなかった。おそらくナリアはこの城に仕えているのだろうが、城に仕えている人間全てを国王が把握しているとは思えない。
 王は差し出されたバッジを見ると、すぐに「あぁ」と頷いた。
「すまないが、ナリアを呼んできてくれないか?」
 マリュの後ろに控えていた家臣はその名を聞くとすぐに「わかりました」と答え、部屋をあとにした。彼が部屋を出る時に嬉しそうに笑みを浮かべていたことを誰も知らない。
 まさかナリアの名を王が知っているとは思わず、マリュは展開の速さにまばたきをしていた。そうしてマリュが状況を把握するよりも先に展開は進んでいく。
 乱暴にと言うほどではないが、勢いよく扉が開けられた。
「ナリア=ハリエス、ただいま参りました! 王様、何かご用でしょうか!」
 先程までとはまるで違う雰囲気を纏ったナリアがそこには立っていた。一瞬別人かと思うほどに、さっきまでの落ち着きが全く見えなかった。
「僕じゃなくて、こちらの勇者様が君を呼んだんだよ」
 マリュの存在に気付くと、ナリアは驚いたように駆け寄ってきた。鉄パイプの人など目ではないほどの速さだった。
「マリュさん! 私にご用だなんて……何か問題でも? もしやまたマリュさんを勇者じゃないと言う方が……」
「え、や……そんなことは何もないんですが……」
 理解は全く追いついていなかったが、呼んだ理由を早く言わなければ、ナリアの思考がどんどん飛んでいくような気がした。現に目の前のナリアは真っ青な顔でぶつぶつと何かを呟いていた。
 手に持っていたバッジをナリアの前に突き出すと、ようやくナリアの思考が帰ってきた。
「これを返したくて……それから、ちゃんとお礼言ってなかったから言いたいなって思ったんだけど……」
 そんな理由で呼んじゃダメだったかなとでも言いたげに首を傾げるマリュに、ようやくナリアは笑顔を向けた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 バッジを受け取り自分の胸元につけ直すナリアを、ぼんやり眺めながら微笑んでいたマリュの耳に本日何度目になるかわからない信じられない言葉が飛び込んできた。
「ナリアは将軍職を譲るつもりだったのかい?」
「えっ、いえ、そういうわけではなくて……私にとってお守りのようなものでしたので、マリュさんにお貸ししていただけで……いえ、マリュさんの勝利を疑っていたわけではないのですが、緊張なさっていたので少しでもその緊張をほぐせればと思いまして……」
 国王に声をかけられ、慌てながらも必死にナリアは言葉を返していた。
 その横で目を丸くしているマリュに気付かないくらい必死だった。
「……将、軍?」
 小さな呟きが何とか耳に届いたらしく、ナリアは少し照れたように笑いながら頭を下げた。
「申し遅れました。私、フェイラ王国国軍将軍ナリア=ハリエスと申します」
 ナリアの胸元で光るバッジは、紛れもなく将軍の地位を表す記章だった。

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