「……う?」
ふいに目を覚ました真夜中。灯りがないせいでよく見えないが天井がいつもより高いような気がした。はっきりとしない意識で、布団の感触が違うことにも気付いた。
身体を起こし枕元の灯りに手を伸ばしたところでようやく思い出せた。
ここは自分の家ではなく、城内の一室。
家に帰るつもりでいたのだが、どういうわけだか気がつくと泊まる方向で話がまとまっていた。
「……ねむい……」
普段なら、一度寝れば朝まで絶対に起きないはずなのだが、不思議なことに目が覚めてしまった。眠くないわけではない。あまりにも忙しく騒がしく過ぎていった今日、疲れていないはずがない。
何故目が覚めてしまったのだろうと疑問を感じながら、半分閉じたアプリコットの瞳をこすった。けれど、眠気が覚める気配は全くなかった。
真夜中に扉をノックする音が聞こえても違和感を覚えないくらいに。
「はぁい……」
控えめに響く音に眠そうな声で答えると、扉は音を立てないようにゆっくりと開けられた。そこから誰が入って来たのかを気にかけるほどマリュの頭は起きていない。身体を起こしてはいるものの、ベッドの上で今にも眠りに落ちそうになっていた。
「……マリュ」
軽く肩を叩かれ、マリュは思わず肩をビクつかせた。睡魔に負けそうになりながらも、何とか声の主の方に目を向けたが、やはり動きは緩慢だった。
「……はよ、ござぁま……」
ろれつの回っていない言葉を言い終わるまえに、その言葉を飲み込んでしまいそうになった。眠気が完全に吹っ飛んだ。
「っ! な……っ」
叫びそうになったマリュの口を慌ててふさぐと、来訪者である国王は一言「……静かに」とだけ伝え、手を離した。自分の口を押さえながら必死に頷くマリュを見ると、国王は満足げに頷き声を潜めた。
「すぐに着替えて。旅立ちの準備を」
突然のことに疑問が溢れてきたが、マリュがそれを口に出す前に王は疑問の答えを手早く返した。
「着替えなら先代のものを作り直しておいた。マリュの家族にはもう伝えてあるから大丈夫。夜が明けてからでは、噂を聞きつけた者が勇者を一目見ようと押し掛けてくるだろ。だから、今すぐ準備を」
まくしたてるように答える王の様子に押され、マリュは無言で頷いた。王が服を置いて部屋から姿を消すと、マリュは手早く着替えて部屋を飛び出そうとした。
「…………」
ノブに手をかけたところでしばらく何かを考えていたが、一度ベッドまで戻ってごそごそと何かをすると、改めて扉を開けた。
多くの人に見送られることもなく、勇者は王以外誰にも知られることなく旅立った。そのことを人々が知るのは夜が明けて間もなくのこと。
「マリュさん、朝食の準備が出来てますが……」
扉を叩いても返事がないことを不思議に思ったナリアが遠慮がちに扉を開けると、そこには人影一つなかった。
部屋を間違えただろうかと一瞬思ったが、たしかにベッドには人が寝ていた痕跡が残っていた。
「……マリュさん?」
どこにいったのだろうと思いながら部屋を見回していると、ベッドの上に手紙が一枚残されていることに気付いた。
『本当はちゃんとお礼言いたかったんですけど時間がなさそうなので手紙だけで。
夜が明ける前に旅立とうって王様に言われたので、行きます。
お世話になりました。ありがとうございます。いってきます。
マリュ』
年頃の女の子らしい丸みを帯びた字だった。だが、それを読んだナリアには可愛い字だとかそんな感想を持つ余裕がなかった。真っ青な顔で部屋を飛び出したナリアが向かったのは王の私室だった。 せっかく初代勇者の服を仕立て直して貰ったが、きちんと採寸をしていなかったせいかマリュの身体には少し大きかった。無理矢理着てはみたが、ズボンだけはベルトを締めてもつらいものがあったのでスパッツで誤魔化した。マントは少し引きずるし、額あては重いし、あまり格好はつかない。
「……制服に剣よりは、良いけど……」
マリュは、自分の体格を考えるとあまりに不釣り合いなほどの大剣を見ながら小さく呟いた。抜いた時はそれどころではなかったから、まじまじと眺めるのはこれが初めてになる。過剰な装飾はないが、よく見ると柄や刀身に紋様が描かれている。剣の価値なんてわからないけれど、安いものではないことははっきりとわかる。
「……マリュ? 疲れたのかい?」
剣を眺めていたせいか、いつの間にか足が止まっていたらしい。少し前を歩く王が声をかけてくれた。
明るいところで王を見るのはこれが初めてだった。その金髪はやはり光の下にある方が輝いていた。王冠も装飾もなく、家臣も連れていない姿を見ると、本当に普通の少年に見えてくる。
「ううん。大丈夫です」
剣を引きずるように駆け寄ると、そこでようやく気付いたかのように首を傾げた。
「そういえば王様。どこまで行くんですか?」
せいぜい街の外までだと思っていたが、いつまで経っても国王はマリュの少し前を歩き「こっちだよ」と導いてくれた。今更芽生えた疑問を口に出すと、国王はさほど気にも止めず答えた。
「魔王城までに決まっているだろう?」
「…………え?」
耳がおかしくなったのだろうかと思い、自分の耳を軽く押さえたりしたが、目の前の国王は変わらない笑顔で言う。
「勇者一人に責任を全て押しつけるのは嫌だからね。一緒に行くよ」
幻聴でもなんでもない。一国の王らしいのからしくないのかわからない言葉がマリュの耳に届いた。
「王様なのにお城空けて良いんですかっ? しかも誰も付いてないのに……」
「城の方は優秀な家臣達がいるから大丈夫だよ。それに大人数で行くと目立つだろ?」
だからそんな軽装で来ていたのかと今更気付いても遅すぎた。もっともマリュはいまだに軽装の理由には気付いていないのだろうが。
「でも王様、危ないんじゃないですか……」
「そう。それだよ」
マリュの呟きに王は頷いた。それを見て、ひょっとして引いてくれるんじゃないかとマリュは一瞬だけ期待したが、それはすぐに砕かれた。
「王様って呼ぶのは止めにしないかい? 周りに正体が知られるわけにはいかないからね。だから話し方も砕けて良いよ」
青空の下で見る彼の笑顔は目眩がするくらいに眩しかった。
「ウェルで良いよ。今度からはウェルと呼んでくれないか」
「王様に対してそんなこと出来るわけないじゃないですか!」
昨日までは普通の何の変哲もない一国民だったのに、いきなり勇者にされ、更に一国の王を呼び捨てにしろとは無茶苦茶にもほどがある。
そんなマリュの主張に対して、王は少し俯き悲しそうな声を小さく漏らした。
「……呼んではくれないのか」
消えそうな呟きを耳にし、マリュは思わず黙った。よく考えれば王とは言え十五歳。しかも周りに自分の存在を知られないようにして生きている。周りからは国王としか扱ってもらえず、同じ年頃の友人なんていないのかもしれない。それはきっと、とても寂しいこと。
名前を、呼んでみようかなと、一歩歩み寄った。
「へっ?」
呼ぼうと口を開きかけたとき、強く手首を掴まれた。状況を理解出来ずにいるマリュに、笑顔を向けてあっさりと言ってのけた。
「ウェルって呼んでくれないと放さないよ?」
先程マリュが考えていたことを全て無駄にさせるような笑顔だった。
騙された。
心の底からマリュはそう思った。
「う、嘘つきは泥棒の始まりなんだからっ!」
「嘘なんか言った覚えはないけど?」
精一杯の反撃をさらりと交わしながら国王は続ける。その表情はこの状況が楽しくて仕方ないと言っていた。
「それにマリュが『王様』と呼んでいたら、僕の正体が周りに知られてしまうけど、君が勇者だということも気付かれるんじゃないかな?」
魔王城がどこにあるのかをマリュは知らない。けれど、その途中でいくつかの村を通るであろうことは予測出来る。そこで王様だということがバレれば、一緒にいるマリュが何者なのかということになるのは当然だろう。出来ることならそれは避けたい。なぜならマリュは目立たずにひっそりと生きたい側の人間だから。
楽しそうな国王の顔を恨めしそうに見上げ、マリュは小さく小さく返した。
「……ウェルのいじわる」
「おや、心外だな。マリュのために言ったつもりなんだけど?」
世界はとても平和そうだった。
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