雲一つない青空の下で、雲のように真っ白な羊がゆっくりと今を過ごしていた。朝が早かったせいか、日差しがあたたかいからか、それとも羊を数えているからか、マリュは木陰に座ったまま寝てしまいそうになった。
「少し休もうか?」
 上から降ってきたウェルの問いかけに慌てて首を横に振った。
 勇者ならば、一刻も早く魔王の元に行かなければ。こんなところで寝ている時間なんてあるはずがない。
「……でも、」
 ぽつりと呟き、改めて目の前に広がる光景を眺めた。
 羊の群も、広がる青空も、木々や家々、そしてそこで生活している人々も。特筆することがないほどに、のどかだった。
「平和、だね」
 勇者であるマリュがすべきことは、魔王討伐。けれど、世界は驚くほど穏やかすぎた。魔王に世界が脅かされているとはとても思えないほどに。
 本当に魔王なんているのだろうかと思うくらいに。
「まだ魔王が大人しくしているみたいだからね」
 マリュの考えがそのまま顔に出ていたのかもしれない。ウェルはいつもの笑顔で、マリュの隣に腰を下ろした。
「けれど残念ながら魔王は存在するんだ。先代の魔王……つまり先代勇者に倒された魔王だね。彼の子が魔王の座に着いたらしい。放っておけば何か起きるに決まっているだろう?」
 魔王の存在は国を脅かす。ましてや、かつて人間を襲った魔王の子が、今魔王の座にいる。脅かされないはずがない。
 ウェルの言葉は、マリュも頭では理解が出来た。
 でも、ほんとうに?
「嵐の前の静けさと言うだろう? 信じられない気持ちもわかるが、事が起きてからでは遅いんだよ」
 マリュが小さく頷くと、ウェルは優しく微笑んでマリュの頭を軽く撫でた。
 けれどマリュはまだ目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
 嵐の前ではなく、ただ本当に何も起きないようなそんな予感がした。そんな穏やかさに思えた。
 そうだったらいいなぁと願うように、静かに目を閉じた。
 穏やかな風がマリュの髪を弄ぶ。心地よい風だった。
「……マリュは、魔王を倒したくないのかい?」
 聞こえた言葉に驚き、目を開けた。隣には笑顔でマリュを眺めるウェルの姿があった。
 声が聞こえた時、笑顔ではないような気がしたけれど、ただの気のせいだったのだろうか。
 感じた疑問を気のせいだと言い聞かせながらマリュは視線を羊たちに戻した。
「出来れば、倒したくないかなぁ……」
 聞きようによっては誤解を招くかもしれない。けれどこれがマリュの本心だった。
 おかしな話だ。勇者なのに魔王を倒したくないだなんて。
 半ば無理矢理勇者にされたが、最終決定を下したのはマリュ自身。今隣にいる国王の民を思う気持ちを知り、そんな気持ちを持つ人の役に立ちたいと思って勇者になった。今も役に立ちたいと思う気持ちに変わりはない。
 きっと誰もが「矛盾している」と言うだろう。
 それでもウェルは「そう」とだけしか返さなかった。
 会話はそこで止まり、二人はしばらく言葉もなく羊を眺めていた。よく見ると薄汚れているが、遠くから見ると真っ白な羊の群。耳を澄ますと聞こえる心地よい風の音。
 どれくらいそうしていたのだろうか。時間をこれほど気にせずに過ごしたのは久しぶりだった。ウェルの「そろそろ行こうか」という言葉がなければずっとこのままでいたのかもしれない。
 風や鳥の声、遠くの人の声、それからマントを引きずっている音。言葉があれば耳に届かないような音が意識に入ってくる。
 人といると会話がなければ落ち着かないはずのマリュも、何故か今はこの空間が心地よいと感じていた。
 本人でさえ不思議に思うほど、穏やかな時間。
「ねぇ、マリュ」
「なぁに?」
 少し前を歩くウェルの背中を見上げた。ゆっくり見たことがなかったから気付かなかったが、頭一つ分くらい背が違う。
 話をするのなら顔の見えるところまで行った方が良いのだろうかとも思ったが、剣が重くてあまり早く歩けずあきらめた。ウェルはそんなことを気にも止めていないのか背を向けたまま言葉を続けた。
「無理はしなくて良いんだよ」
 はっきりと聞こえたけれど、マリュには何の話かよくわからなかった。
 何の話をしているのかはわからないけれど、返す言葉はわかった。
「うん。無理はしないよ」
 無理をしているつもりは全くない。これからも何か無理をするつもりは特になかった。
 言いながら先程の魔王の話を思い出した。もしかしたら魔王を倒すことについてなのかもしれない。倒したくないなら無理して倒さなくても良いと言いたいのかもしれない。
 そんなことを考えながらマリュは笑っていた。
 王だと思っていたけれど、そうじゃない。王である前に一人の『男の子』なんだと。優しい男の子なんだと気付いた。
 見上げた空は、泣きたくなるくらいに青かった。

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