昼間でも陽の光があまり差し込まない薄暗い森の中。日が暮れると、ほぼ完全な闇の世界に変わる。風にざわめく木々の声。どこかに潜む獣の息づかい。人間は好んではこの闇の世界に足を踏み入れない。
 そんな闇の世界で、二人は火を囲むようにして腰を下ろしていた。
「やっぱりあそこで宿を取っておいた方がよかったのかなぁ……」
 炎の揺らめきを瞳に映しながら、マリュはぼんやりと思い出した。
 あのときは、まだずいぶんと日が高かった。森の少し手前にあった村でウェルは「宿を取ろうか?」と言った。日が暮れるにはまだ時間があるのに。まだ歩けるのに。だからマリュは首を横に振った。少しでも早く魔王の元に行くために。
 その結果が深い森の中での野宿である。
 おそらくウェルは森の深さを知っていたから提案をしたのだろう。そう考えると申し訳ない気持ちになる。
「マリュ。野宿は初めてかい?」
 問いかけに答えるでもなく、ウェルは唐突な質問を投げかけた。炎の向こうにいるウェルの姿は少し揺らいで見えた。
 質問の意図を掴めないながらも、マリュは「うん。初めてだよ?」と小さく頷いた。
「そうか。僕も初めてだ」
 ここで会話は止まってしまった。ウェルは何を言いたかったのだろう。表情を伺おうとしても、揺らめいていてよくわからない。仕方なくマリュは炎を眺めながら考えることにした。
 自分は宿を取るべきだったと悔やんだ。せっかくウェルが気を使ってくれたのに、それを無下にしてしまったから。後悔の言葉に対してウェルは「野宿は初めてか」と問いかけた。どうしてだろう。
 そこまで考えて「あぁ」と思った。
 彼はその後「僕も初めてだ」と言った。その声はいつもよりやわらかだった。つまり、そういうことだ。気にしなくて良いよと言いたかったんだ。
 もしかしたらマリュの思いこみかもしれない。自分の都合の良い方に勝手に解釈しただけかもしれない。けれど、目の前の少年はそう言う優しさを持っている。
 そんなに気を使って、疲れないのかなと思った。でも、よく考えれば自分が気を使わせている事実に気付いた。この国王の役に立ちたくて魔王討伐へ向かっているのに、気を使わせては意味がない。
 少し、もう少しだけ。気楽にいかなくちゃ。
「ねーウェル。少し聞いても良い?」
 さっきまでの気持ちを吹き飛ばすように、マリュは明るく声をかけた。
 自分が暗くなれば、気を使わせてしまうから。少し肩の力を抜いて。
「ナリアって私とあんまり年は変わらないと思うんだけど……でも、将軍なんだよね?」
 確かに自分も勇者ではあるけれど。それでも魔王討伐を終えれば元の学生に戻ってしまう自分とは違う。ナリアはこれから先もずっと軍人であり続ける。いきなり勇者になったマリュとは違う。ナリアは自分の力で将軍までのし上がったのだろう。
 マリュと同じで、まだ子供のはずなのに。
「そう言うことは本人に聞いた方が良いんじゃないのかい?」
 小さな笑い声とともにマリュの耳に届いた言葉。それは全くその通りではある。ナリアのことをウェルに聞くのは自分でも少し違うと思っていた。
「でも……ナリアに次はいつ会えるのかわかんないし……」
 魔王討伐後、城に行けば会えるとは思う。けれど、討伐後すぐはおそらくそんな話をしている暇もないだろう。だからと言って、落ち着いてから? 全てが落ち着いた頃、それはマリュが学生に戻った頃。勇者ではなく、ただの一人の少女に戻った時。そのときに将軍と話が出来るのだろうか。将軍に会えるのだろうか。
 きっとそんなことを気にする必要はないと言ってくれるだろう。けれど、ただの一国民に戻れば、こうして国王と話すことも何もかもが難しくなってしまう。そういうもの。
「……そうだね」
 ウェルにもわかっていた。本来なら自分はおいそれと外に出て良い人間ではないことを。これが終われば国王に戻ることを。ウェルとしてマリュと話を出来るのは今だけだろうということを。
 だから笑顔で「ナリアの話を少ししようか」と言った。
 今この時間を大切に過ごすために。
「僕が初めて会ったのは、ナリアが士官学校に通っていた頃だったかな」
 士官学校に年齢制限は設けられていない。志と相応の能力さえ持っていれば容易に入学出来る。ただし卒業まで残る者、軍へと入隊出来る者は多くない。
「大した子だよ。五年かかるのに二年で卒業。そして三年で将軍まで昇格したんだから」
 目を細めて懐かしいと呟いた。彼の瞳には今何が映っているのだろうか。
「……ちょっと待って? 三年で将軍って……学校卒業したのっていくつの時?」
 そのまま流しそうになったが、マリュは一つの引っかかりを口に出した。それに対してウェルは何でもないことのように、むしろ不思議そうな表情で答えた。
「十歳くらいじゃなかったかな」
 それがどうかしたのかとでも言いたそうな表情。たしかにマリュと同じ年頃で将軍をしているのだから、少し考えればわかるようなことではある。
 けれど、それはつまり。八歳で士官学校に入学したと言うこと。
「確か開校以来最年少だったんじゃないかな。入学も卒業も。そう言えば将軍職に就いたのも最年少だったかな」
 マリュの感覚がおかしいのか。目の前の国王の感覚がおかしいのか。
 ウェルが何てことのないことのように口に出す言葉。それは全て簡単に流すことの出来る言葉ではなかった。
 年齢制限がないとは言え、大抵は初等教育を終えるまで士官学校に入学したりはしない。一般教養を身につけてから士官学校へ入る場合がほとんどである。それにも関わらず、ナリアは初等教育を終えずに士官学校へと入学したらしい。
「ナリアは努力の天才だったからね。入学した時点で一般教養は十分身についていたよ」
 自分とはまるで世界が違うと思っていた。けれど、これほどまでだとはさすがにマリュも想像出来なかった。世界が違うというレベルではない。
「あれは……そう。卒業試験の前だったかな。士官学校に凄い子がいると聞いて、一度見てみようと思って。あの頃は僕もまだ王子だったからいくらか身が軽かったからね」
 マリュの反応をさほど気にもせず、ウェルは炎の中に木の枝を投げ入れた。
「最年少だとは聞いていたけれど、まさか自分より二つも下の女の子だとは思わなくて。あのときはさすがに驚いたよ」
 それでもきっと、今マリュが受けた驚きよりもずっと小さいものだったのだろう。
 風の声も獣の息づかいも聞こえない。今耳に届くのは枝の焼ける音と、ウェルの語る言葉だけだった。

「君が噂の子?」
 突然背後からかけられた声に、ナリアは肩をびくりと震わせた。おそるおそる振り返ると、見覚えのない顔がそこにいた。
 整った顔立ち。学内にこんな子がいただろうか。いれば嫌でも目立つと思うのだけれど。そんなことを考えながら「噂、ですか?」とオウムのように返した。
「そう。最年少で入学して、最年少で卒業しようとしている子。君のことだろう?」
 少年の言葉にナリアは「なんだ」と思ってしまった。なんだまたそれか。入学したときも、学校にいる間も、ずっと物珍しがられた。つまらないなと思ってしまう。賞賛ややっかみはもう聞き飽きた。目の前の少年もその一人かと思うとため息しか出てこなかった。
「それだけのご用でしたら、失礼させていただきます。卒業試験を間近に控え、あまり暇ではありませんので」
 軽く頭を下げ、この場から立ち去ろうとした。事実暇ではなかったし、これ以上話をしていても意味があると思えなかった。
「最後に一言だけ良いかな?」
 去ろうとするナリアに声が届いた。ナリアが振り向く前に、返事を聞く前に、少年は言葉を続けた。
 どうせ、聞き飽きた言葉を聞かされるのだろうと思っていたナリアには意外だった。今思い返してみれば、意外どころではなく例えようのない驚きだったかもしれない。
「僕が上に行く頃に、君はどこまで上がってきてくれているのか。楽しみにしているよ」
 ナリアが振り向いた頃には、少年はもう背を向けて歩き出していた。どこかから名前を呼ばれたらしい。その名前は「ウェル様」と……
「……ウェル……ウェルディナンス・フェイラ……?」
 頭によぎったその名前は、この国唯一人の王子の名前。
 そして、ナリアが上へと行くことを心から望んでくれた、家族以外では初めての存在。

「……もう、あのときから三年も過ぎてしまったんですね……」
 窓から見上げた空は、部屋の灯りが窓に反射してよく見えなかった。それでも何故か空を見上げていた。
 本当は宿など取らずに国王と勇者を追って走ろうと思っていた。けれど二人もどこかで宿を取っているかもしれないと思い、走るのをやめてしまった。二人を追い抜かしでもしたら、あまりに情けない。
 明日のためにもナリアは体力を回復すべく宿を取ることにしたのだ。
「王様の言葉で、私はここまで上がって参りました」
 最初は唯一つの望みのためだけに上を目指していた。いつか現れる真の勇者を待つために。そのためだけに上を目指していた。周囲から何を言われようとも気にも止めなかった。周囲の言葉はあまりにも薄っぺらく無意味なものばかりだったから。
 その世界が変わる瞬間は突然で、一瞬。
 薄っぺらじゃない言葉。望んでくれた。期待してくれた。
 たったそれだけのことで世界が変わった。
 その一言だけで、それまでの何倍も頑張ろうと思えた。
 誰よりも上を、誰よりも上を。ひたすら上だけを見て走り続けた。期待に応えたかったから。もう一度会いたかったから。
 けれど次にその姿を見た時、彼は王子ではなく国王になっていた。先王が亡くなり、王子だった彼は王位を継いだ。それは自然の流れだったけれど、彼の表情が消えたのは悲しかった。
「……元々雲の上の人だったけれど……」
 ますます遠くなり、幼い頃は気にも止めなかった身分の壁を感じてしまった。これ以上近寄れないと思ってしまった。
「いけませんね。こんな気持ち」
 思考を全て頭から振り払い、ナリアは深く息を吐いた。
 自分が今すべき事は国王を城に連れ戻すこと。余計なことを考え感傷にふけることではない。
 目を閉じると浮かんでくる。今でもはっきりと。あの頃と変わらないミントブルーの瞳。
「疲れているのかもしれませんね。こんな事を考えるなんて」
 眼鏡を外すと世界が靄でもかかったようにぼんやりと霞んで見える。手探りでサイドテーブルを探すと、その上に眼鏡をおいた。
 今夜はもう休もう。少し走りすぎたのだろう。疲れさえ取れればこんな思考はどこかに消えてしまう。自分にそう言い聞かせながら部屋の灯りを消した。

 空を見上げても木々がうっそうと繁り、夜空は見えなかった。
「そっか。じゃぁウェルとナリアって付き合い長いんだねぇ……」
 ウェルの話が終わるとそんなことをマリュは呟いた。
「三年とは言え、一年半くらいは会っていなかったから長いとは言えないと思うけれど」
 小さく笑いながら答えるウェルに、マリュは首を傾げた。長いとは言わないのだろうか。マリュにしてみれば長いと思うのだけれど。
「会ってない時間があっても、付き合いが続いてたことに変わりはないと思うんだけどなぁ……」
 会えなくても、連絡一つ取れなくても、それでも付き合っていた時間になると。そう思ってはいけないだろうか。相手のことを思う時間があれば、付き合っていたことにはならないだろうか。
 燃え続ける炎を見ながら考えるマリュを炎越しに眺めながら、ウェルは小さく笑った。
 その笑いに気付いたのか気付かなかったのか、マリュは唐突に口を開いた。
「……私ね、幼なじみがいるんだ」
 わずかに目を細めて。マリュは大切な宝物を扱うように、ゆっくりと語り始めた。
「幼なじみって言っても、一緒にいたのは一ヶ月くらいだったかなぁ……私もその子も、両親が忙しくてあんまり側にいてくれなかったの」
 マリュの父は勇者として、魔王を倒しに。幼なじみだったライラの父は魔王として……。そして二人の母は父のサポートに。娘を危険にさらしたくないと、小さな村に置いて。この事実を誰も知らない。
「すぐに仲良くなれたけど、その子は家の都合で引っ越しちゃってそれ以来会ってないの」
 親が側にいなくて寂しい思いをした二人が手を取り合うのはすぐだった。けれど、勇者の子と魔王の子。別れは決して避けられない。
 その別れから数年の時を経た、今。
「それでも私にとっては今でも一番の友達。誰よりも一番付き合いが長い友達だって思ってるよ」
 強い瞳。
 たとえこの考えを周囲から否定されても、それでも考えを変えるつもりはない。思い出を大切にし過ぎているのかもしれない。けれど、自分にとってはかけがえのないものだと思っている。
 それきり口をつぐんだマリュに、ウェルは一言だけ言葉を返した。
「マリュがそう思うのなら、それで良いと思うよ」
 その答えにマリュが嬉しそうに笑った。
 人との付き合い方なんて人それぞれ。付き合いの基準も、長さの基準も。マリュのような考え方をする人が少ないとしても。
 そんな考え方が存在しても構わないと言ってくれた。
 何てことのない一言が不思議と嬉しかった。
「ウェルとも、長く付き合えたら良いなぁ……」
 重くなった瞼を閉ざし、炎の声を聞きながら。マリュは小さくそう呟いた。
 返事は聞こえなかった。マリュの呟きが届かなかっただけか。マリュが眠りに落ちたからか。それとも、答えを返せなかっただけか。
 深い森の中で、炎は一晩中燃え続けていた。

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