あまりの恥ずかしさに耐えきれず、マリュは逃げるように走り出していた。アプリコットの瞳にはわずかに涙が浮かんでいた。
 ただのおまじないなのだから。たかが額なのだから。逃げ出す必要はないはずだった。頭ではわかっているつもりだったが、足が勝手に動いていた。
 本人に言わせれば「おでこだろうと何だろうと恥ずかしいものは恥ずかしいの!」とのことだった。
 今のマリュの頭の中にはそれ以外なにもなかった。他のことを考えられる余裕が全くなかった。
 だから後ろから「マリュ!」と声をかけられ、腕を引かれるまで気付かなかった。
 引かれた勢いでウェルの腕の中に落ちた時、顔が熱くなるのを感じた。けれどそれは一瞬。次の瞬間には木々の倒れる音で一気に熱が引いた。このときになってようやく異常な事態に気づけた。
「え、なにっ?!」
 身構えようとしたマリュをかばうようにして、ウェルが前を見据えた。その視線の先では次々と木が倒されていき、砂埃が上がっていた。
 状況を飲み込めないでいるマリュに小さく耳打ちをした。
「なるべくここから動かないこと。良いね?」
 ウェルの言葉を理解するよりも先に、砂埃の中から影が飛び出してきた。それが翼を持った魔物であるとマリュが気付くのには時間がかかった。
 魔物は一直線にウェルに襲いかかったが、あごを蹴り上げられ、軌道を変えられてしまった。
 一体目の攻撃をやり過ごした頃には砂埃は晴れ、現状を目で確認することが出来た。そこには形は様々あれど数え切れないほどの魔物が集まっていた。
「……思ったよりも多いな」
 小さく舌打ちをし、この場をどう切り抜けようかと数秒思案した。
 数秒で考えがまとまったわけではない。数秒で終えざる得ない状況になっただけだった。
 思案を始めて数秒後、正面の魔物の群がわずかに動揺を見せた。ウェルもマリュも何もしていないはずだった。何の前触れもないざわめきに何か来るのかと身構えたが、その予想は外れた。いや、確かに来たとも言える。
 魔物の群の中を突っ切って、ナリアが現れた。
「えっ! 何でここに?」
 ウェルの背後にいたマリュが目を丸くして声を上げた。まさか一国の将軍がこんなところまで一人で走ってくるだなんて誰が想像出来るだろう。もっとも、国王が勇者の魔王討伐に同行するよりも現実的ではあるが。
 驚くマリュとは違い、ウェルは理由を大体察していた。自分を連れ戻すためだろうと予想は出来る。だが、そんな理由はどうでも良かった。
 ナリアはウェルの前まで来ると、大して息の切れた様子もなく、紅い頬で困ったように口を開いた。
「王様! こんな勝手なことはもう……」
「ナリア、ちょうどよかった」
 言葉を遮るようにしてウェルは話し始めた。その顔には満面の笑みが貼り付いていた。
「この場をどうやり過ごそうか困っていたんだ。手伝ってくれるね?」
 その言葉でナリアはようやく後ろを振り向いた。自分が魔物の群の中を突っ切ってきたことに気付いていなかったらしい。
「……わかりました」
 念のためにと持ってきた剣をウェルに手渡すと、小さく息を吐きながら「あまり好きではないのですが」と呟いた。
 自分はどうすればいいのか困っているマリュに気付くと、ナリアは何でもないことのように笑った。
「ここはお任せください。マリュさんには危害を加えさせません」
 ラベンダーの瞳には力強い光が宿っていた。
 それだけ言い残すとナリアは改めて魔物を見据え、地を蹴った。目にもとまらぬ速さとはこういうものを言うのだろうかと思うほどだった。ナリアは一瞬と思うほど僅かな間に魔物の群の中にその身を置いていた。更に次の瞬間には数体の魔物が宙を舞っていた。
 気が付くとウェルも魔物の群に斬りかかっていた。それは斬りつけると言うよりは殴りつけるに近いような気もした。魔物から血が流れることはなかった。
「……二人とも強いんだ……」
 呆然と眺めることしか出来ないマリュは、改めて自分の力の無さを痛感した。自分があの魔物の群の中へと向かっても、足手まといにしかならないとわかる。勇者なのに守られてしまうほど弱い。
 ふと、思ってしまった。
 こんな自分が勇者に選ばれた理由は何なのだろうか。
 魔王を倒すだけの力が必要ならば、目の前の二人の方がずっと適任だ。けれど、勇者の剣を抜いたのはマリュだった。
 それは、どうして?
「……マリュ?」
 考え込んでいると、目の前にウェルが立っていた。さっきまで魔物の群に斬りかかっていたはずなのに。驚いてウェルの背後に視線をやると魔物の姿は消えてしまっていた。
「魔物達でしたら、もう逃げていきましたよ?」
 軽くスカートについた砂埃を払いながら、ナリアが笑みを浮かべた。あれだけの魔物を飛ばしていたのに、イエローオリーブのその髪はほとんど乱れていなかった。
 それほど長時間考え込んでいたのか、それとも二人が短時間で片づけてしまったのか。
「そっか、お疲れさま。二人とも強いんだねぇー」
 考えることを中断して、マリュは素直な感想を口にした。顔には労いの笑顔を浮かべて。
「強いと言うほどではないと思うけど……剣は幼い頃から教わっていたから」
「将軍とは言え軍人ですから。ある程度は出来ないと下の者にも示しが尽きませんし」
 二人にとってはこれくらいは出来て当然のこと。国王と将軍なら当たり前なのだろうか。その当然のことも出来ない勇者で本当に良いのだろうか。
 考えるのを止めたつもりだったが、どうしても気になってしまう。考え始めればまた暗くなってしまう。そうなればまた気を使わせてしまう。
 だから気にしないようにしようと、マリュは話題を変えることにした。
「ね。そういえばどうしてナリアはこんなところに?」
 変えるべきではない方向へと話題を転換させたマリュの言葉で、ナリアは自分の使命を思い出した。何も魔物を追い返すためにこんなところまで来たわけではない。
「王様っ! 城にお戻りください!」
 無断で国王が城を空けるなんて大問題どころではない。ただでさえ、魔王騒ぎで国が不安定だというのに。
 けれどウェルは、ナリアの言いたいことを全て理解した上でこう言ってのけた。
「今日一日歩けば魔王の元にたどり着けるんだから、帰るのはそれが終わってからで良いだろ?」
 国王に何かあっては大事だから、ナリアは城に戻れと言う。
 けれどウェルは、国王のくせに全てを勇者に任せて、自分は城で待つだけという行動は取りたくなかった。
 考えも、進む方向も正反対だった。けれど互いに簡単に退けなかった。
 どちらの理由も『国王』だから。
「え、っと……」
 沈黙に耐えかね、マリュが小さく声を漏らした。
 自分が口を挟んで良いことだとは思えなかったが、いつまでもこの場に立ちつくしているわけにもいかない。勇者である限りマリュは進まなくてはならない。
 けれど、口は災いの元、だった。
「マリュさんからもお願いします! 是非城に戻るようにと、一言で良いですから!」
「マリュ一人では心細いだろ? 僕が一緒に行ってあげるよ?」
 ほぼ同時に口を開いた二人の迫力に押され、マリュは思わず「はい」と答えてしまった。
 勇者の手に全てがゆだねられた瞬間だった。
 ラベンダーとミントブルーの視線が痛かった。
 自分の情けなさに後悔もしたが、大人しく二つを天秤にかけることにした。こういうことは第三者の目で決めた方が、公平な結果が出るらしい。
 もしもこのままウェルと同行したらどうなるだろう。確かにウェルの言う通り一人では心細いかもしれない。けれど、もしもウェルに何かがあっては大変どころではない。やはり多少寂しくとも、城に戻ってもらった方が良いのではないだろうか。
 そこまで考え、ふとウェルの顔を見てしまった。
 顔を見て、考えてしまった。
 そういえば、ウェル自身はどうしたいのだろう。
 彼が国王だからと言う理由と、マリュのことを考えての理由が出ているが、当のウェル自身はどうしたいのかわからない。発言を聞く限りは『同行したい』と取れる。けれど、それは本当に彼の望みなのだろうか。
 ウェルの笑顔を見ていると、なんとなく聞き難くなってしまう。
 仕方なく、視線をそらしてから考えることにした。今までの言動を思い返せば少しはウェルの気持ちに近づけるかもしれないと思ったから。
 このときに、近い出来事から思い返そうとしたのが間違いだった。
「っ!」
 最初にマリュの脳裏によみがえったのは、魔物の群れが現れる少し前。額にキスされたことだった。
「やっぱりウェルは帰って!」
 真っ赤になりながら叫ぶと、マリュは踵を返して走り出した。
 これ以上一緒にいるのは耐えられないと判断したらしい。けれど、その発言にいたるまでの考えをウェルもナリアも知らない。あまりにも唐突な叫びに呆気にとられるだけだった。
 しばらくして、ようやく我に返った二人が慌ててマリュを追いかけた。
 ピーチピンクの髪が鮮やかに舞う。
 走っているマリュは無我夢中で気が付かなかった。原因はそれだけではなく、森が深すぎたということもあるだろう。
 光のほとんど入らない森では、自分の上に影が出来ているかどうかもはっきりとはわからない。
 気付いた時には遅かった。
「マリュ!」
 追いかけてきた二人の目前に広がる光景。それは魔物に捕まったマリュの姿だった。魔物の背に生えた大きな羽根。そこから大体のことは想像出来た。
 魔物はマリュを腕の中に収めたまま、口の端を上げた。
「我らが魔王様は勇者をご所望だ。こいつは戴いていく」
 どうすることも出来なかった。
 魔物一体倒すくらいならば、ウェルにとってもナリアにとっても容易いことだった。けれど、相手の手中にマリュがいるとなると話は変わってしまう。彼女の無事を最優先すると動きが制限される。手が皆無なわけではない。けれど、相手が翼を持つ魔物であり、勇者を連れ帰ることが目的では……
「ねー。ウェルー、ナリアー。聞いてくれるー?」
 場の空気を一変させるような声を、捕まっている当のマリュ本人が発した。魔物も含め、周囲が呆気にとられていることなど気付かずに。
 もしかしたら、自分の状況を理解してないのではないかと不安になるくらいいつも通りだった。
「魔王のところまで連れて行ってくれるみたいだから、その間のことはお願いします……って私が言うのも変かな?」
 勇者の言葉を呆然と聞いていた魔物が慌てて怒った。
「オマッ……何言ってるんだ! 別にオマエのために魔王様の元へ行くわけじゃ……」
「でも魔王のところまで連れて行かれるんでしょ?」
 実に攫い甲斐のない少女だった。抵抗がないどころか平然とし過ぎている。その様子にもはや言葉を返すことも出来ず、魔物は小さくため息を吐いた。
「とりあえず、連れて行くからな!」
 投げ出すような発言を残し、魔物は空へと飛び立った。その腕の中のマリュが「いってきまーす」と言っていたのは聞こえていないことにした。
 取り残されてしまったウェルとナリアはしばし呆然と後ろ姿を見送っていた。深い森からではほとんど空なんて見えないが、わずかに見える空は明るすぎるくらいに青かった。
「……ナリア。この状況でもまだ城に帰ることを望むかい?」
 攫われたとはとても言えそうにはなかったが。それでも確実に攫われた部類に入る。それを放って置いて良いのか。
 ナリアは軽くこめかみを押さえながら首を横に振った。
「マリュさんを放っておくことは出来ません」
 妙な気分だったが、とりあえず二人はマリュを追うことにした。

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