空が白み、空気が薄い灰色になって来た頃。朝靄の中、城の門を叩く音が聞こえた。こんな時間に来訪者とは珍しいと思いながら門番は足を運んだ。
「今日のこの時間はジェロアですね! 早く開けてください、緊急事態です!」
自分の声を呼ぶ声に驚き、門番は慌てて門を開けた。
「どうなさったんですか将軍、こんな朝早く……」
将軍の姿を見た門番は更に驚いた。彼女がその場にしゃがみ込み、肩で息をしているのだ。将軍の身体能力は多くの者が知っている。息を切らすほどとは一体どれだけの速さだったのだろうか。
門番が「大丈夫ですか」と声をかけたが、ナリアはそれどころではなかった。
わずかに乱れた髪を直しもせず、強く声を張り上げた。
「私のことは良いですから、今すぐ皆を起こしてください!」
文句を言われたら私の名を、それでもダメなら国王の名を出しても構わないとナリアは続けた。その表情はいつにも増して堅かった。 空はやはり青かった。世界がどんな状況であろうとも、空にはそんなこと関係ない。頭ではそれがわかっていても、青い空を見ると何か胸にぽっかり穴が空いたような気がしてくる。
日差しが優しすぎて泣きそうになる。
目の前にはあのときと同じ羊の群がいた。けれど、あのときとは違う。ここは魔王城から城へと向かう際に必ず通る場所。魔物の群が通り過ぎた場所。
初めて見た時と違い、のどかさは欠片もなかった。雲のようだった羊も薄汚れ、傷ついていた。辺りは荒れ地となっていた。崩れかけた家に誰もが閉じこもっていた。風の音が余計に閑散とさせた。
「……ライラはこんなことしない」
マリュの知っているライラは意味もなく他人を傷つけたりしない。意味もなく物を壊したりしない。こんな風に村を意味もなく襲うことはしない。
どれだけ言われても、そう信じたかった。
木陰で膝を抱え小さくなっていると、少しだけ泣きたくなった。
このままだとライラは本当に魔王にされてしまう。勇者が倒さなければいけない存在になってしまう。マリュは勇者だから、ライラを倒さなくてはいけない。それを考えると無性に泣きたくなった。
魔王を倒したくない。
それはずっと思っていた。どれだけ大きな悪だろうと、倒したくなかった。倒すと言うことは殺すと言うこと。そんなことしたくなかった。
今、その気持ちが強くなっていた。大事な親友を殺すなんて出来なかった。けれど倒さなければこの国はおそらく滅びてしまう。それを阻止しようと、マリュ以外の誰かが魔王を倒そうとするかもしれない。
十三の少女が考えるにはあまりにも重すぎる。
地上の暗さとは関係なく、空は相変わらず深く青かった。
「マリュ」
かけられた言葉に、マリュの肩がわずかに震えた。
恐怖や怯えではない。まだ、どうしてもウェルと顔を合わせることが出来ない。ただそれだけだった。
「馬を貸してくれるそうだよ。行こう」
マリュの様子が違うことに気付いていて、それでもウェルは変わらない態度で接していた。だからこそ、余計に合わせづらかった。
視線を逸らして頷くマリュも、どうして顔を合わせられないのかわからなかった。
ウェルの少し後ろを何も言わずに付いて歩いた。この空気が妙に居心地悪く感じた。風の音も、遠くの声も耳に届かないくらい。この空気を壊したくて口を開こうとするが、何も出てこなかった。
つらかった。
「……マリュ」
背を向けたまま、少し前を歩くウェルが小さく声をかけた。マリュはわずかに身を縮ませただけで、返事は出来なかった。
それでもウェルは淡々と続けた。まるで最初から返事なんて求めていないように。
「無理して勇者を続ける必要はないんだ。君が辞めたいと思うなら辞めて良い。誰も無理強いはしない」
言葉が出なかった。
マリュの様子を見て、そう思ったのだろう。
胸が痛くなった。
マリュの心配なんかしている場合ではないのに。国王として考えなければならないことが数多くあるはずなのに。勇者が必要なはずなのに。それにも関わらず、マリュのことを気にかけてくれていた。気を使わせてしまった。
自分のことでいっぱいになっていたことを申し訳なく思った。この人の役に立ちたいと思って始めたことなのに。
「……私、幼なじみがいるって話したよね?」
言葉が喉をつっかえていたのが嘘のように、すんなりと出てきた。けれどそれはウェルの言葉に対する答えではなかった。
そのことにウェルは何も言わず、静かに耳を傾けた。
「幼なじみの名前はライラ=イスタリー。今の魔王」
「っ?!」
驚いたように振り向くウェルに、マリュは微笑んで言葉を続けた。今はもう顔を合わせることも出来る。
「お父さんが魔王だったから魔王にされただけ。ライラ自身は魔王に興味はないの。だってライラは意味もないのに人を傷つけたり出来ないもん」
言いながら、マリュの頭にふと考えがよぎった。魔王とは何なのだろうか。魔物の王、それはつまり魔物を治める存在という意味のはずだ。悪であるとは一概に言えないのではないだろうか。そもそも、魔物は悪なのだろうか。
マリュは目を伏せたまま、ゆっくりと続きを紡いだ。
「ライラを信じる。だから魔王は倒さない。けど、勇者は辞めない」
強く、揺るぎない瞳。
自分に何がどれだけ出来るのかわからないけれど、それでも意志を曲げるつもりはなかった。
少し驚いたようにマリュを見ていたウェルも、小さく笑って答えた。
「わかった。マリュがそう言うなら止めないよ」
「ありがとう……」
マリュ自身、無茶を言っている自覚はあった。魔王討伐を命じられた勇者なのに、魔王を倒さないと言うなんて。無茶だとわかっていて、それで実現させようと思っている。少し欲張りだなと思う。
どうやって叶えようかと考えるマリュに、隣を歩いていたウェルが思い出したように尋ねた。
「本来なら村を襲ったりする魔王ではないんだね?」
突然の問いに何度かまばたきを繰り返したが、はっきりと頷いた。ライラは絶対にそんなことをしない。
マリュの返答に、ウェルは口元に手をやり少し考え込んでいた。
「……初代と同じかもしれないな」
その呟きにマリュは顔を上げた。初代、それは今や伝説となっている勇者の物語。
マリュの知っている伝説は、光のように現れた勇者がこの国を魔王から守ったという程度。どこが今の状況と同じだというのだろう。
「初代勇者が倒したとされる魔王は、自分の意志でこの国を襲ったわけではないと云われている。他の魔物に操られていたと」
一部の者にしか伝えられていない伝説。それが事実かどうかはわからない。けれど、もしも事実だとすれば……
「ライラも操られているかもしれないってこと、だよね」
まるで別人のような行動を起こしているライラ。操られているのだとしたら容易に説明が付く。そうなると一番怪しいのは一人の男。魔王城が崩れる中、ライラと共に結界の中にいた男。
ウェルにすがりつくようにマリュは訴えた。
「ねぇ! どうやったら解くことが出来るの? どうすればライラを元に戻せるの?」
必死に求めるマリュから、ウェルは視線を逸らした。
その様子を見たマリュの表情が堅くなる。続きが、何を言われるか、おおよその予想が出来てしまった。
「……わからない」
逸らされた顔からは表情が読めない。でも声でわかる。申し訳なさそうに呟くその声で。
力が抜け、マリュは掴んでいた手をゆっくりと放した。それから小さな声で「仕方ないよね」と返した。
わからないのでは仕方ない。残っているのは伝説くらい。その中に勇者が何をどうしたかという細かいことまで記されている可能性は低い。伝説として残ることは『勇者が魔王を倒した』程度。仕方ないことだ。
深く息を吸うと、マリュは胸を張り顔を上げた。ないことをいつまでも悔やんではいられない。
「さ。行こうよ、ウェル!」
腕を引き、明るく笑って見せた。
「早く行かないと手遅れになっちゃうよ?」
明らかに作り物だとわかる笑顔。けれど、精一杯なんでもないように笑おうとしていることがわかる。強くあろうとしている。
その背中にウェルは小さく呟いた。マリュの耳まで届かないとわかっていて呟いた。
「……無理は、しないでくれ」
呟きは誰の耳に届くこともなく、風の音に消えた。
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