月が空に輝く時間になり、ようやくマリュの足が地についた。
 暗くてわかりづらいが、マリュの顔は真っ青だった。
「……もう馬に乗りたくない……」
 青い顔で呟くマリュに、未だ馬上のウェルが少し困ったように笑みを向けた。
「すまない。そこまで苦手だとは思わなかったんだ」
 寸前になって「馬に乗ったことがない」と言ったマリュは申し訳なさそうな顔をしていた。二頭借りるつもりだったが、仕方なく一頭だけにし、後ろにマリュを乗せることにした。事前に「急ぐから」と注意していたが、あまり効果はなかった。
 一言で言うと、馬に乗って酔ったのだ。
 げんなりとした顔で、それでも「大丈夫」と笑っていたが、瞳に生気がなかった。
「それよりも、みんなのところに行こう?」
 おぼつかない足取りだったが、それでも真っ直ぐ歩こうとしていた。いつ転んでもおかしくない。
 ウェルは小さくため息を吐くと、馬から下りた。馬は引きながらマリュの隣に並ぶと「支えようか?」と尋ねた。マリュからの返事は勿論「大丈夫だよ」との断りの言葉だったが。
 二人は城下町の南へと向かっていた。
 ウェルが言うには街の南に位置する森の中にわずかだが物資を隠してあるとのことだった。遠い昔から、城下が襲われる際にはそこへ避難するようにとされていたらしい。
 避難所があるとは言え、早く解決しなくては。
 真っ青な顔のままだったが、マリュの気持ちは焦っていた。焦ってどうにかなることではないが、落ち着いてはいられなかった。
 避難所生活は長く保たないだろうともウェルは言っていた。人は急に生活の質を変えることが出来ない。急激に質が下がることに耐えられないはずだと。耐えきれなくなった時どうするかは個人差がある。その中に魔王のせいだと言って、魔王を倒そうとする者が現れないとは言い切れない。
 魔物の群の中に飛び込んで死んでしまうかもしれない。けれどもしかしたら本当に魔王を殺してしまうかもしれない。
 どちらの結果も防がなくてはいけない。
 そう思っているが、どうすればいいのか解決策がまだ見つかっていない。操られているライラを助けることが出来れば良いけれど、方法が全くわからない。
 ぐらぐらする頭で必死に考えているマリュに「もうすぐ着くよ」と声をかけた。
「皆にも聞いてごらん。何か良案が出るかもしれないよ」
 頷く一方で「たぶん出ないだろうな」と心のどこかで思っていた。マリュ自身もどうしてそんなことを思うのか不思議だった。
 頭上にはいつもと変わらない月が輝いていた。その姿を見上げながらぼんやりと呟いた。
「夜なら簡単にライラのところまで行けるかな……」
 明るい時間帯よりは、誰もが寝静まった時間の方が安全なのではないだろうか。けれどその提案はあっさりと却下された。
「それはどうだろう。初代も先代も深夜の魔王城に侵入したようだからね。向こうも警戒しているんじゃないだろうか」
「そっか……」
 月に手を伸ばし、静寂の中言葉を続ける。
 辺りは静かな闇の世界。昼の世界とはまるで違う姿。昼間では聞き取れないような小さな呟きさえもよく通る。
「やっぱり魔物って襲ってくるのかなぁ」
 勇者を襲わない魔物がどこの世界にいるだろうか。誰でもわかるはずのことを疑問として口に出した。
「襲われないと思うかい?」
 ウェルの問いかけに返す言葉を、月を見上げながら考えていた。襲われないと思っているわけではない。けれど、
「どうして、襲われるのかなぁ……」
 互いに答えを返せず、疑問に疑問を返していた。会話としては破綻していた。けれどそこには会話ではない何かが確かに存在していた。
「勇者だから、では答えとして不足かい?」
「んー……」
 マリュが言葉を選んでいると呼び声が聞こえた。その声に反応するよりも先に風が起きた。一陣の風。ほんの一瞬の、けれど驚くほど強い風。その風で舞うマリュの髪は、花のようだった。
「マリュさん、王様。お待ちしておりました!」
 気が付くと目の前でナリアが背筋を伸ばし敬礼していた。
 ナリアの背後には森が広がっていた。そこは城下の人間が全て避難している避難所。ほとんど人の気配のないそこは、避難所には見えなかった。逆にその方が魔物に見つからないで済むのかもしれない。けれど生活するのに、人は耐えられるのだろうか。
 マリュの疑問に月は何も答えてくれなかった。

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