息を殺して、魔物達の会話を驚いたような顔でナリアは聞いていた。そんなナリアの様子をマリュは笑顔を浮かべて見ていた。驚くほどのことじゃないと思っていた。そんなにおかしいことじゃないと、思っていた。
 ふとこの部屋は何の部屋だろうと思い、マリュは顔を上げた。
 そこはそう広くない、どちらかと言えば城にしては狭い部類に入る部屋。その中に所狭しと並ぶ本棚の山。古い本の匂いがした。
 首を傾げながら本棚に近づくと、後ろからナリアの声が聞こえた。
「ここは書庫です。王様の許可がないと普段は入れないのですが……」
 無断で入ってしまったが、あとで罰を受けるべきだろうかとナリアが考え込んでいた。けれどマリュはそこまで考えが及ばなかった。この部屋は書庫なのだ程度のことしか考えていなかった。
 本棚の間をぼんやりと歩いてみた。題字さえ読めない本や、本棚から引き出したらページが落ちてしまいそうな本、色々な本があった。
「……でも、よくわかんないのしかないなぁ……」
 目に入る題字はどれも理解出来なかった。十三歳の少女にはまだ難しすぎる本しかなかった。
「こんなの読めないだろうなぁ」
 題字の書かれていない古い本を試しに一冊手に取ってみた。それを手に取った理由は他の本より随分薄かったから。分厚い本と本の間に挟まっていて、気付かず通り過ぎそうだったくらい。
 苦笑を浮かべながらもページをめくってみた。読めることなど微塵も期待していなかった。
「……」
 字面を追うように視線を走らせる。それはここにあるのが不思議なくらい、容易に読むことが出来た。容易に理解が出来た。
 読むことに意識が向き、この場所も、自分の状況も、全て忘れてしまっていた。
「……マリュさん?」
 いつまでたっても本棚の山から帰ってこないマリュを心配してか、ナリアが様子を見に来た。マリュが本を読みふけっているのだと知ると、首を傾げた。
 まるで周りが見えてないのではと思うほど、マリュは意識を集中させていた。
「ねぇナリア」
 本から一切視線をそらさず、前触れもなく口を開いたマリュに、ナリアは驚いた。てっきり自分が側にいることさえ気付いていないのだと思っていたから。もしかしたら、そうなのかもしれない。マリュはナリアの様子など気にも止めず言葉を続けた。
「勇者の伝説……初代の。聞かせてもらえる?」
 唐突な申し出。その意図が全く読めなかったが、おそらく彼女には何か考えがあるのだろう。そう思いながらナリアは幼い頃何度も聞いた伝説を語り始めた。
 まるで自分のことのように胸を張り、情景を思い浮かべるようにまぶたを下ろした。
「それはこの国を魔王が襲ったときのこと。北から徐々に徐々にと攻め込んでくる恐怖に、国中が震えていたときのこと。人々の祈りに答えるように、一筋の光が差し込みました。その光は驚くべき速さで魔物達を蹴散らしていき、最後には魔王さえも一撃で討ちました。そうして光は人間達の世界を守ったのです。魔物達が去ると、光は城下町に剣を突き立て声高らかにこう言いました。『いつかこの剣を引き抜く者が現れる。その者こそ我の真の後継者なり』やがてその光は勇者と呼ばれるようになり、これが勇者の始まりとなったのです……」
 最後に笑って「要約するとこういう話です」と言った。
 本を読んでいるのか、何かを考えているのか、様子を見ただけではわからなかった。やがてゆっくりと口を開いたことにより、何かを考えていたのだとわかった。
「ナリア。その話はどこまで本当?」
 勇者伝説を誰よりも信じていたナリアは「全て」だと返したかったが、マリュの思い詰めた表情をしていることに気付いた。自分の感情だけで答えを返して良い場面ではない。
「……そうですね。記録にも魔物に襲われたことは残っていますし……マリュさん以前に剣を抜いた方もいませんから、ほぼ信じても問題ないと思います。勇者の言葉、本当に魔物を蹴散らしたかどうか、そういった点は信憑性に欠けると思います」
 ナリアから返ってきた言葉に、マリュは大きく頷いた。本を元あった場所に戻すと、ナリアに笑顔を向けた。揺るぎないアプリコットの瞳。何か強い感情に満ちあふれた笑顔。
「ありがとう」
 いつもと変わらないソプラノ。けれど不思議と心強く感じる。
 そのお礼は伝説を話したお礼なのだろうか。
 何か言葉を返さなくてはとナリアが考えていると、後ろから小さな金属音が聞こえた。
「鍵、開いたみたいだね」
 ナリアの横を通り過ぎ、マリュは扉の前まで行った。
「それじゃぁ、ナリアはここにいて? 出来るだけ魔物に見つからないようにね?」
 マリュの一言は、ナリアを突き落とすほどだった。
 ナリアは勇者の役に立つために、マリュのために何かをしたくてここまで来たのに。それなのにもう用なしだと言われてしまった。例えマリュにそんなつもりがなかったとしても、ナリアにとってはどん底に突き落とされたも同然だった。
 胸が苦しくなる中、必死に何か言おうと言葉を探した。ナリアの必死な様子を見て、マリュは少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね? じゃぁ、ウェルに会ったら『心配しないで。無理はしないから』って伝えて?」
 一つだけナリアに頼み事をすると、マリュは部屋を飛び出した。周囲に魔物の姿はない。地下倉庫でナリアに聞いた道順をもう一度思い出す。
「……大丈夫。絶対に、やるんだから」
 小さな呟きを吐き出すと、マリュは駆け出した。風のようにと言うほど速くはないけれど。クラスでも遅い方だったけれど。死ぬ気で走れば何とかなるんじゃないかと信じていた。
 二つ目の曲がり角を曲がると魔物がいた。けれど怯まない。全力で走ってくるマリュに、魔物は驚いていたが大人しく通してはくれなかった。
 その巨体を活かし、襲いかかろうとしていた。マリュはそれを転がるように……実際に転がって避けた。襲いかかったあとのことを考えていなかった巨体は、バランスを崩し派手な音を立てて倒れた。
「ごめんなさいっ!」
 振り返りもせずにそれだけ言い残しマリュは更に走り続けた。今の魔物が倒れた音で、多くの魔物が集まってくるだろう。集まる前に少しでも先に進まなくては。
 マリュの予想通り、魔物が次々にやってきたが、持ち前の集中力だけで全ての魔物を避けていった。そして避けるたびに「ごめんなさい」と言い残す不思議な勇者として魔物達の目に映った。
 さすがに避けられた魔物達もただで済ませるつもりはなかった。マリュの後を必死に追いかけていくが、なかなか追いつかない。
 普段のマリュなら当の昔に捕まっているか、体力が持たずに途中で倒れるかしているはずだった。捕まるわけにはいかないと言うプレッシャーが背中を押しているらしい。プレッシャーに押しつぶされる弱さはなかった。
 やがて魔物達の方の体力が尽きてきた頃、終わりが見えた。
「、っと!」
 一際大きな扉。それに全力でぶつかると、マリュは扉の奥に転がり込んだ。倒れ込んでいる暇もなく、すぐに起きあがると内側から鍵を閉めた。
 扉の外から「開けろー!」「卑怯者!」と様々な声が聞こえたが、マリュは中から「ごめんねー!」と声を張り上げるだけだった。

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