古い本の匂いがする書庫に一人残されたナリアはしばらくのあいだ呆然としていた。
 マリュにここにいるように言われてしまった。それはナリアにとって将軍職を解雇させられるよりも悔しいことだった。
 全く仕事を残されていなかったら、感情が溢れてきたのかもしれない。けれど仕事を一つ任されてしまった。どれだけ重要な意味を持つのかわからない仕事。ひょっとしたら意味はないのかもしれない。そんな仕事。
「……よく、わからなくなってしまいました」
 誰に言うでもなく小さく呟いた。
 今のナリアは自分のことなのにわからなくなっていた。自分がどうしたいのか。自分が何を望んでいるのか。少し前ならわかっていたことが、わからなくなっていた。
 所在がないままぼんやりと扉を見ていると、背後から物音がした。
 この部屋にはナリアの他に誰もいないはずだ。本棚の陰に隠れていたとしても、マリュかナリアが見つけているはずだ。
 それでは気のせいだろうか?
 神経を張りつめ、素早く振り向いた。けれど誰の姿もなかった。本棚の陰も覗いてみたが、何もいなかった。やはり気のせいだったのだろうかと思った時、書庫の壁の一部が軋むような音を立てた。
「っ、王様っ?」
 隠し扉となっていた壁から姿を現したのはウェルだった。
 互いに驚いたように顔を見合わせていたが、すぐにマリュのことを思い出した。
「マリュは?」
「マリュさんが……」
 二人はほぼ同時に口を開いたが、互いにナリアが言おうとした言葉の続きが必要だと理解出来た。だからウェルは続きを促し、ナリアは口をもう一度開いた。
「マリュさんから王様に言伝です。『心配しないで。無理はしないから』だそうです」
 どういう意味をその言葉が持つか。ウェルは瞬時に理解した。そして、この場所にナリアがいたと言うことは……
「ナリア! マリュもここにいたんだね? 何か本を読んでいなかったかい?」
 普段とは違う王の様子にナリアは困惑していたが小さく頷いた。そして一つの本棚を指さし「そこの本を読んでいらっしゃいました」と返した。
 それだけで十分だった。
「ありがとう!」
 ウェルはナリアの方をろくに見ず、礼だけ言い残し部屋を飛び出した。
 マリュは間違いなく『あれ』を見た。放っておくわけにはいかない。
 真っ青な顔で走っていたが、途中でふと異変に気付いた。城内の内装がおかしいわけではない。随分走ったはずだが、魔物に全く出会わない。それどころか気配すらない。いくらかの覚悟をした上で飛び出してきた身としては肩すかしを食らった気分だった。
 何があったのかを考えつつ走っていたが、玉座の間に近づくことによって原因も理由も理解出来た。
「……マリュ」
 ここまでの道を、魔物を避けながら必死に走ってきたマリュの姿が目に浮かぶ。
 玉座の間に転がり込んだマリュをどうすれば良いのか、魔物達が扉の前で話し合っていた。その数は城中の魔物が集まっているのではと思うほどだった。
「これって放って置いて良いのか?」
「いや、ダメだろ」
「っつっても中から鍵かけられちゃ入れないし……」
「……扉をぶち破れば済む話だろ」
 平然と魔物の輪の中に入り、一言提案をした。その提案に周囲が「お、いいね!」「でも魔王様が入るなって言ってなかったか?」などの様々な声が沸いた。
「……だれ?」
 提案者に対する疑問が出るのには少し時間がかかった。
 そんなこと気にも止めず、提案者であるウェルは扉の前まで歩みを進めた。そして振り返りもせず一言だけ言い捨てた。
「命が惜しいなら黙っていろ」
 感情を押し殺したような低い声が響いた。

 玉座に身を沈めているのは大切な幼なじみ。いつもは気の強い灰色の瞳も、今は虚ろだった。髪をそっと撫でてみたが、反応は何もなかった。
「……ライラ。私ね、何をすればいいのかやっとわかったよ」
 薄暗い部屋で声を潜めるようにして、マリュは微笑んだ。
「何をしていらっしゃるのですか。勇者さん」
 背後から聞こえる声にマリュは少しだけ反応した。この声が聞こえるのは予想していた。この部屋にいると確信していた。
 マリュは振り返ると、真っ直ぐに男を見据えた。ライラを操っているあの側近の男。
「私が勇者だと知ってるなら、何をしに来たかわかってるんじゃないですか?」
 薄暗いからそう感じるだけか、マリュの声がよく響いた。何かを決めた表情。決して引くつもりはない。
 それに対して男は嘲るように鼻で笑った。
「魔王を倒しに、ですか? 魔物一人倒せない貴方が?」
 これまで魔物も倒したことがないのに、勇者だと言い張るつもりか。魔物側にしてみればそうだろう。けれど、マリュははっきりと首を横に振った。
「私は誰も傷つけないって決めたの。誰も殺さない。人間も、魔物も」
 十三歳の勇者は。
 少女は。
 やわらかい笑みを浮かべていた。
「だって、誰も悲しませたくないもん」
 人間も、魔物も。
 それはあまりにも愚かだ。
「とんだ綺麗事ですね。そうやって善人ぶるおつもりですか?」
 勇者はあくまでも人間にとっての勇者。魔物にとってはただの敵にしかなり得ない。
「きれいごと、かなぁ? だって……」
 それでもマリュは首を傾げて笑っていた。その笑顔は敵に向けるものではない。春の日差しのような笑み。
「魔物も人間もそんなに変わらないと思うなぁ」
 言葉がライラに届くはずはなかった。彼女の意識はここではないどこかを彷徨っているはずだから。その指先がぴくりと動いたことに誰も気付かなかった。ライラの瞳は何も映していないはずだった。その瞳の中にマリュがいて、幼い頃の姿を重なっていることは誰も知らない。
 マリュとライラが初めて会ったあの日。ライラが自分は魔物だと言ったあとのマリュの言葉。それはいまだ変わっていなかった。変わっていたのかもしれない。けれど、今のマリュはあの日と同じだった。
「……愚かですね」
 男はただ嘲笑を浮かべるだけだった。彼にはただの綺麗事にしか聞こえなかった。
 けれどマリュはそんなこと気にもせずに笑っていた。
「それで? あなたはライラを……魔王を操る方法を知ってたってことは、解く方法も知ってるんでしょ?」
「当然ですよ。けれど、まさかそれを実行するほど貴方は愚かではないでしょう?」
 互いに笑みを浮かべたまま。
 二人が手にした情報に大差はない。
 二人とも、全てを知っているはずだった。
「自分の命を捨ててまで、世界を救いたいですか?」
 魔物の問いに、勇者は首を横に振って答えた。
「私が守りたいのは世界なんかじゃないよ」
 その笑顔には強さも優しさもあった。
 瞳には光があった。
 そして手には剣を。
「みんなの笑顔だよ」
 剣を迷うことなく自分の首筋に当てた。
 のこす言葉は一つだけ。
「ライラ。少し汚れるけど、我慢してね?」
 剣を勢いよく引くのと、扉が破られるのはほぼ同時だった。
 国王の瞳に映ったのは首から血を噴き倒れる勇者と、血に染まる玉座だった。血の紅と、鮮やかな桃色の髪が強く印象に残った。

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