月がぼんやりと浮かんでいた。
 見慣れた月なのに、何故か綺麗だなと感じた。すると隣から「綺麗だね」と声がした。
 よく知っている町なのに、まるで知らない町のようだった。ただ隣に六花がいるだけ、それだけなのに現実離れしたものに見える。
 何か、言葉を口にするのが惜しいような、そんな空気だった。
 静寂さえもいつもと違うものに感じた。
 これは夢か何かで、一言でも言葉を発してしまえば、現実に戻されてしまうような、そんな感覚。
「ね、直くん。どこに連れて行ってくれるの?」
 見るもの全てが珍しくて、くるくると表情を変えながら周りを見回していた六花が、直人の袖を軽く引っぱった。これだけでも十分連れ出した甲斐があったと思う。
 袖を引かれる感じが、これが夢でもなんでもなく、現実なのだと強く思わせる。
 その手を取り、それから笑んで見せた。
「もうすぐだよ」
 懐かしい感覚。子どもの頃のような、幼く、無邪気な、小さな秘密。誰にも言えない二人だけの秘密。心が躍るような感覚。
 繋がる手の、あたたかさ。
 幼い頃は世界が全て輝いて見えた。何でも出来るような気がしていた。
 そんなものを感じるのはどれくらいぶりだろうか。
 二人で歩く夜道は静かなものだった。
 決して遅い時間ではないのに、誰ともすれ違わない。当然かもしれない。向かう先は誰も知らない穴場。
 駅からは遠く、車も滅多に通らない道。俗に言う『町外れ』に存在する雑木林。
 その奥に、白い月明かりを浴び、精一杯咲いている桜の木があった。誰にも見られなくても、きっと同じように精一杯咲くのだろう。
 花自体が光を放っているかのように、闇の中に白く浮き上がっている花。何者をも魅了するようなその姿。
 そっと隣に視線をやると、六花は桜に見惚れるように、言葉もなく立ちつくしていた。
 直人には桜なんかよりも六花の方が幻想的に見えた。
 闇の中そこだけ切り取ったような白い肌。わずかに紅潮した頬。どこか夢見ているような紅い瞳。風が吹くたびに舞う赤茶けた長い髪。
 伸ばしそうになった手を思わず握りしめた。
「……直くん、夢見草って知ってる?」
 桜だけを映していた瞳が、唐突に直人を映した。
「え、いや、知らないけど……」
 あまりにも唐突で、ひょっとして六花のことを見ているのが気づかれたのではないかと思ったくらいだった。けれど六花はそんなことに気づいた様子はなかった。
 ただ楽しそうに微笑んでいた。
「桜の異称なんだよ。夢見草って」
 目の前で爛漫と咲き乱れる桜。
「きっと、夢みたいに綺麗で見る人を惹きつけて、でも儚くて……だからそんな名前がついたんだろうなぁーって思うの」
 人が惹きつけられてやまないその姿。けれどその命はとても儚い。儚いからこそ惹きつけられるのかもしれないその姿。人は、そんな姿に夢を見ているのかもしれない。
 なんとなく。
 それこそ漠然とそう思っただけなのだが。
 似ていると思った。
 直人は、六花と桜が似ていると思った。
「……でも、桜の花が薄紅色なのは……」
 呟きかけた言葉を飲み込んで、六花はもう一度笑みを浮かべ桜を眺めた。
 それは有名な伝承。
 桜の木の下には、死体が埋まっている。その血を吸って、白い花は薄紅色に染まる。
 現実にはそんなことあるはずない。日本だけで一体何本の桜があるだろう。その全てには死体が埋まっているなんて……
 二人は、桜が舞い散る中、時間を忘れ、いつまでも飽きもせずに桜を眺め続けていた。
 全てを忘れさせ、人を惹きつける。それが桜。まるで何か不思議な力でもあるような……
 このままいつまでも静かに時間が過ぎるのかと思っていた。
 けれど、六花が直人の方を振り向いて笑った。
「また、見に来たいね。桜」
 明るく華やいだ笑顔のはずだった。
 実際に今まで見たことないくらい笑っていた。いつもやんわりと控えめに笑う姿と比べると、驚くくらいに対照的な笑顔だった。
 それなのに、何故だろう。
 どこか哀しそうで、今にも消えてしまいそうな笑顔に見えた。
 ぼんやりと、この笑顔はきっといつまでも忘れないだろうと思った。
 そんな春真っ盛りの夜。
 決して忘れることの出来ない夜。

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