さすがに翌日は少しだけぎこちなかったが、六花と直人はまたすぐに今までと同じように言葉を交わすようになった。今度は直人が一方的に話すのではなく、少しだが六花も話をするようになった。
 そうして夏休みも半ばを過ぎた頃だった。
 きっと疲れていたのだろう。六花と会う時間は減らしたくない。だからと言って、課題を放置したり、友人達との付き合いをおろそかにするわけにもいかなかった。そして、アポなしで訪ねてくる従兄の相手もしなくてはいけない。若いからと言って無理をし過ぎた。
 木を登り、六花の部屋に入ろうとしたとき、足を滑らせた。
 足場をなくし、そのまま身体は宙に浮いた。
 落ちているとき、恐怖よりも別の考えが頭をよぎった。
 ――『彼女』も空を飛ぶときは、こんな感じだったんだろうか。
「っっっ! 直く……」
 遠くで聞こえる六花の声でさえも『彼女』のものに聞こえた。
 そう。もう会うことの出来ない『彼女』の声に。
 出会いは本当に唐突だった。
 よく『天使が舞い降りたのかと思った』というのがあるが、まさにそれだった。だが、直人と彼女の場合は『天使が落ちてきた』の方が正しかった。
 まだ小学生だった直人が道を歩いているときだった。ちょうど木の下を通り過ぎようとしたとき、上から何かが落ちてきたのだ。
 いきなり直人の上に落ちてきた正体の知れないものは謝りだした。直人の上に乗ったまま。
「ごめんなさいっ! だいじょうぶ?」
 まさか落ちてきたものが『人』だとは思わず、直人はまじまじと彼女を見てしまった。
 真っ白い肌に、真っ白い髪。紅い瞳。その姿は、まるで……
「……天使?」
 直人がそう呟くと、彼女は嬉しそうに身を乗り出してきた。彼女が動くたびに、下敷きになっている直人は痛みで顔を歪めたのだが、残念なことに気づいてくれなかった。
「やっぱり天使に見えるよね?」
 天使かと思った彼女は、ただの日本人で名前は杏樹といった。先天性白皮症……アルビノの少女だった。
 アルビノとは、紫外線を吸収するメラニン色素をもたないため、皮膚ガンになりやすく、視力が弱い人達のことである。紫外線対策さえすれば日常生活には支障がないらしい。もっとも当時の直人はそんなことは知らず、白い人程度の認識だった。
 日常生活に支障がないとは言え、周りとは違う容姿である。誰もが気にするような容姿を、杏樹は「天使みたい」だと言って喜んでいた。そして「天使なら、空も飛べるよね」と言い張り、木に登っては飛び降りるという行為を繰り返したらしい。そのおかげで、直人は杏樹と出会えたのだが。
 直人はそれ以来、時折杏樹に会いに行った。物珍しさではなく、純粋に『空を飛ぼう』としている杏樹に惹かれていた。
 天使だと思いこみ空を飛ぼうとする無鉄砲で無邪気で夢見がちなところは、とても同い年とは思えなかった。けれどそんなところも魅力だった。
 その容姿のせいか、時折今にも消えてしまうんじゃないかと思うくらい儚く見えた。けれど、いつも見せる笑顔は、空を飛ぼうとする杏樹は、消えてしまいそうと感じるどころか、何よりも強い存在感を放っていた。
 ただ単に、杏樹の笑顔が見たかっただけだった。
「今日も飛ぶ練習するの! 直くんも一緒に行こ?」
「ねぇ、直くん。私、外で遊びたいな!」
「今日お祭りあるんだよね? 良いなぁ、行きたいなぁー」
 そんな何気ないわがままのたびに「じゃぁ、連れてってあげるよ」と手を引いて外に連れ出した。
 青空の下に立つ杏樹は、本当に眩しかった。
 純粋で、真っ直ぐで、無邪気で、直人にないものをたくさん持っていた。
「楽しいね、直くん」
 真っ白なきらきらした笑顔をいつも浮かべてくれたから。その笑顔を見るたびに勝手な勘違いをしていた。
 杏樹の願いを何でも叶えられる気になっていた。何でも出来る気になっていた。けど、本当は何も出来ていなかった。
 その日も同じように杏樹を連れ回していた。いつもと同じだった。
 違うのは……
「直くん、大丈夫?」
 杏樹の声が聞こえる。もう会えるはずのない杏樹の声が聞こえる。
 ぼんやりと目を開けると、杏樹の姿が見えた。
 夢? 現実? それとも……白昼夢?
 そこまで考えて、もうどうでも良くなった。
 伝えたい言葉がある。何も知らなくて、幼くて、ごめんと。
「……杏樹……」
 けれど、名前を呼んだときに気づいた。
 違う。
 意識がはっきりしていく。わかる。杏樹じゃない。
 心配そうに、不安げな顔で覗き込んでくるのは杏樹じゃない。
「六花……」
 身体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走った。触るとこぶが出来ていた。あの高さから落ちてこの程度で済むのだから、大したものだ。
 まだ心配そうな顔をしている六花に、直人は笑って「大丈夫」だと言った。けれど、六花は小さく首を横に振った。
「だって、直くん、つらそうな顔してたよ」
 言葉が出てこなかった。
 まさか、そんなことを心配されているとは思わなかった。ただ落ちたことを心配されているのだと思っていた。
 それから、六花はそっと直人の頭を撫でた。
「今も泣きそうな顔してる……」
 頭を撫でながら「そんなにつらい夢を見たの?」と尋ねた。
 違う。
「……たしかに、少し……きつい夢だったけど……」
 けど、そうじゃない。
 今、つらいのは……
「あの、ね? 直くん」
 覗き込んできた六花の顔は、今にも泣きそうだった。
「嫌じゃなかったら、話して? つらい夢って、人に話すと少し楽になるんだって」
 今つらいのは、夢のせいじゃない。自分のせいだ。
 気づきたくないことに気づいてしまった。
 六花の白い肌、紅い瞳、赤茶けた髪。それらは全て彼女がアルビノだと言うことを示している。彼女に会ったとき、彼女と話をする前に、気づくべきだった。
 直人は、六花を通して杏樹を見ている。
 自分のしていることに気づいてしまった。六花に会いに来ているのが、杏樹の影を重ねていたからだと。六花本人を見ていないことに。
 儚げなところも、無邪気な笑顔も、その名前の呼び方も、全て。
「……俺、人を死なせたことがあるんだ」
 これは懺悔ではない。
 人殺しだとわかれば、自分を見ていなかったと知れば、自分を通して他人を見ていたと知れば、六花は直人を拒絶してくれる。拒絶さえしてくれれば、六花から離れることが出来る。
 そうしなければ、直人はこれからも六花に杏樹を重ね続けるだろう。彼女を『六花』として見ることが出来ないのならば、嫌われ、離れた方がお互いのためだ。
「子どもの頃、アルビノの女の子と知り合った……」
 直人の口から淡々と流れ出す言葉を、六花は表情一つ動かさずに聞いていた。
 紡がれるのは、あの日のこと。いつもと同じように杏樹を外に連れだした日の話。
 あの日、いつもと違ったのは、杏樹が倒れたこと。
 何が起きたのか、わからなかった。
 ただ杏樹の母親に「アンタのせいで……!」と罵声を散々飛ばされたことしかわからなかった。
 それからしばらくして、杏樹が死んだことを知った。
 葬式には行けなかった。
 杏樹は何かの病気で、連れ回してはいけなかったのかもしれない。それとも紫外線を浴びすぎたせいかもしれない。今でも理由はわからないけれど、直人の中には『自分が殺した』という思いが今でもはっきりと残っている。
 何も出来なかった、何も知らなかった自分のせいで、杏樹を死なせてしまった。もっと杏樹のことがわかっていれば、殺さずにすんだはずなのに。
「どれだけ悔やんでも、殺した事実は変わらない。俺は、杏樹を殺した」
 杏樹を殺したことは変わらない。だからこそ、六花と杏樹を重ねた。今度こそ、死なせない。今度こそ。そうやって自分勝手な理由で六花に近づいた。
「……それで、直くんは私をその子と重ねて見てるんだね?」
 直人は耳を疑った。
 六花の言葉は『今初めて知った』のではなく『ずっと気づいていた』ようなニュアンスだった。念のため確認するような言葉。
 顔を上げると、六花はやわらかに微笑んでいた。
 怒るでも、哀しむでもなく。笑っていた。
「つらかったんだね?」
 そっと手を伸ばし、頬に触れる。これは、直人の求めていた拒絶ではない。
「っ、な……んでっ!」
 手から逃れるように後ずさると、すぐ壁にぶつかった。そういえば、外に落ちたはずなのに何故六花の部屋にいるのだろう。
「自分自身を見られてなかったのに、よく知りもしない他人の代わりだったのに、なんで六花は……」
 六花にとって直人は何だったのだろう。初めて話をした人? 初めて外に連れだしてくれた人? 初めての友人? 自分自身を見てくれなかったのに?
 理解が出来なかった。
 最初から誰かの代わりにされていたのに、それでも直人を受け入れようとする六花が、理解出来なかった。
「だって、私は嬉しかったから」
 見ているのがつらい笑顔。
 この笑顔のために、いつもはあんなに頑張っていたのに。今はこんなにつらい。
 怒って罵声を浴びせてくれれば、泣きながら叫んでくれれば、まだいくらか気持ちが楽になったのに。
「その子の代わりでも、直くんは私を必要としてくれた。その子がいなかったら、直くんはここに来てくれなかった。外に連れ出してくれなかった。そうでしょ?」
 言葉が、胸の深いところに刺さる。
 それとも、刺さっていた物を溶かしてくれているのだろうか。
「ね、直くん。一緒にその子に会いに行こう?」
 笑顔を浮かべたまま、六花は手を差し出した。
 初めて二人で外に出たときは、直人が。
 二度目は、六花が手を差し出した。

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