「始まるみたいだな。行こうか、六花」
 差し出された直人の手を取ると、また嬉しそうに笑った。
 ゆっくりと歩いていくと、最初は二人だった影が少しずつ少しずつ増えていく。
 直人の袖を少し引っぱると、六花は小さく耳打ちをした。
「ね、直くん。みんなお祭り行くのかな?」
 耳元で囁かれるということ自体が久しぶりで、なんだか少しくすぐったかった。けれど、嫌じゃない。心地よいくすぐったさ。
「全員じゃないかもしれないけど、ほとんどそうだろうな」
 見る限り向かっている方向は全員同じ。家族連れや友人同士。色々いたけれど、みんなどことなく浮き足立っている。
 いくつになっても、祭りは何故か浮き足が立つ。
 どことなく現実味のない空気。いつもと同じ場所のはずなのに、全く違う顔をしているせいか。飾り立てられ、数え切れないほどの人を集めるせいか。祭りの空気は、どこか現実離れしている。
 きっとその空気に踊らされ、誰もが浮き足立たせるのだろう。
 しばらくその人波に流されるように歩いていたが、やがてぼんやりと灯った祭り提灯が目に入った。
「……わぁ」
 六花の感嘆の声が聞こえる。目の前に広がるのは、大分日が落ちた紫ががった橙色の空と、妙に活気づいている夜店と、溢れかえるほどの人。
 そこはもう現実とは違う世界だった。
 直人が祭りの光景をまるで人ごとのように眺めていると、軽く腕を引っぱられた。見ると、六花が必死に腕を引っぱっていた。
「直くん、早く早く!」
 誰もが浮き足立っている祭りの夜。ここで傍観しているようでは、祭りに来た意味もない。
 無邪気にはしゃぐ六花を見ているとそんなことを思った。
 小さく笑うと、逆に六花の手を引いて歩き出した。
「おもいっきり楽しもうか!」
 二人は祭りの雑踏へ足を踏み入れた。
 人混みに潰されそうになりながら、それでも繋いだ手だけは離さなかった。現実から離れた世界で唯一感じられる『現実』のあたたかさ。繋がった手だけが現実のようだった。
「直くん、りんごあめだって!」
 人混みの中、目にとまる夜店一つ一つをわざわざ直人に教える。直人も同じものを見ているはずなのに、六花に教えられるとなんだかいつもと違うものに見えてくる。
 六花の手を引きながら人の流れを抜け出すと、直人は夜店のおじさんに話しかけた。
「りんごあめ、一番良い奴一つ頂戴?」
「後ろのお嬢ちゃんにかい? それならお嬢ちゃん可愛いからサービスしてやろう」
 刺さっている中から選ぶでもなく、おじさんは中の方に声をかけた。そして笑顔で六花を手招きした。気持ちのいい笑顔。
「お嬢ちゃん。出来たてでまだちょっと熱いから気をつけんだよ?」
 少し困ったように直人を見たが、直人が小さく頷くと嬉しそうにりんごあめを受け取った。
「わぁ……ありがとうおじさん!」
 深々と頭を下げる六花におじさんの方が少しためらっていた。
 りんごあめ屋から離れるときも六花は嬉しそうに手を振っていた。そのうちおじさんもまんざらじゃない様子で手を振り返してくれた。
 二人はもう一度人の波に流されていった。
「りんごあめって、綺麗だねぇ……あかくてきらきらしてて、食べるの勿体ないなあ……」
 後ろを振り返ってみると少しためらいがちに、でも嬉しそうにりんごあめを食べている六花がいた。その顔を見れただけでも直人は買ってよかったと思う。それだけの価値が六花の笑顔にはあると思っていた。
 しばらくの間は六花がりんごあめを食べているせいもあって、人波に流されるだけだった。
 見るもの全てが輝いて見えるのだろうか。六花はりんごあめを食べながらも瞳を輝かせて辺りを見回していた。そんな六花とはぐれないように、手をしっかりと握った。
 その握っていた手を、六花がくいくいと引っぱった。
「金魚すくいやってるよ。直くん」
 いつの間に食べ終わったのか、りんごあめが刺さっていたはずの棒で一つの屋台を指していた。そこには大きく『金魚すくい』と書いてあった。
 覗いてみると赤と黒の金魚が所狭しと泳ぎ回っていた。その金魚たちに子ども達が果敢に立ち向かっている最中のようだ。
「ニィちゃんもやってみるかい?」
 悩んだのはほんのわずかだった。
「いくら?」
 六花のために一匹くらいすくってやろうと思った。あとになって思い返すと無謀だったなと感じる。
 祭り自体は何度も来たことはあるが、金魚すくいをやったのは初めてだった。
 紙の貼られたポイを受け取ると、早速水面近くを泳いでる金魚をすくおうとした。
「直くん頑張ってー!」
 六花の声援を背に、一匹にねらいを定めすくおうとした。
「あ」
 けれど初めてでいきなりすくえるはずもなく、直人のポイは金魚によっていとも簡単に破られてしまった。
 店のおじさんがニヤニヤと笑いながら「もう一回するかい?」と言葉をかけてきた。直人の力量を見て無理だと思ったのだろう。そんな相手の思考が読めるほどの余裕はなく、ただ悔しさに任せて「もう一回!」と直人が口走りかけた。
「私、一回やってみたいなぁ」
 遠慮がちに手を挙げて六花がおじさんに主張した。それには直人も少し驚いたが、すぐに六花の分の代金を払った。
 ポイを受け取ると六花は水槽の中を覗き込みながら「どの子にしようかなぁ」と楽しそうに呟いた。本来の金魚すくいはこうあるべきなのかもしれないと思えてくる。
 すくう相手が決まったのか、六花は真剣なまなざしでねらいを定めていた。それからポイが水につくかつかないかのギリギリの位置を保ちながら様子をうかがう。ぱしゃっと小さな水音がしたと思ったら、六花のお椀の中には元気の良さそうな小さな金魚がいた。
「直くん直くん! どうしようすくっちゃった!」
 頬を赤らめ、少し興奮した様子で六花は直人を手招きした。正直、六花がすくうとは思っていなかったのかおじさんの方が驚いていた。
 すくった金魚を袋に入れて貰うと、六花は嬉しそうにそれを眺めていた。そんな六花の手を引いて、また人波の中に戻ろうとすると「直くん」と声をかけられた。
 どうしたのだろうと振り返ると笑顔を浮かべながら金魚を差し出し「あげる」と言った。
「……え?」
 わけがわからず六花と金魚を交互に見比べていたが、六花は変わらない笑顔を浮かべていた。
「今日は直くんにお世話になりっぱなしだから、そのお礼……って言っても、この子も直くんのお金で取った子なんだけど」
「あ……」
 なんだか照れくさかった。
 お礼を言われるのは初めてじゃなかった。けど、なんだか妙に恥ずかしかった。それは珍しく六花が恥ずかしそうに笑っているからつられたのだろうか。それとも祭りの空気のせいだろうか。
 六花の手から金魚を受け取ると、少し照れたように笑って、それから六花の手を取った。
「……ありがと」
 小さなお礼の言葉は雑踏に消されることもなく、六花の耳まで届いていた。
 人波の中へと戻ると直人は流れに逆らって人の少ない方へと歩き出した。少しずつ歩きやすくなることに気づいた六花がようやく直人に尋ねた。
「直くん? お祭りは?」
 どんどん遠ざかっていく人混みを眺めながら、六花が不安げな声を出した。
「花火、見たいんだろ? だったら、こっちに穴場があるんだよ」
 六花の顔を見てみると、不思議そうに何度かまばたきをしたあと、ぱっと笑顔になった。その笑顔を見るとやっぱり六花には笑っていて欲しいなと思う。
 祭囃子からだんだん離れていくと、不思議と寂しく感じる。中にいるときには祭囃子なんてほとんど気にしないのに。本来はこちらの方が現実なのに。

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