「……ただいま」
 鍵を開け、中に入ったが真っ暗だった。誰の返事も聞こえないのは予想していた。
「今日も帰り遅いって言ってたし」
 両親は共働きだった。二人とも同じ職場で働いているせいか、片方の帰りが遅い場合はもう片方も遅かった。きょうだいはいない。
 父親だけでも稼ぎは十分なはずなのにとは思うが、母が働きたいと言っていたらしいのであまり気にはしていない。将来を考えれば働ける内に働いておきたいものなのかもしれない。まだ子どもの直人にはよくわからない。
「夕飯どうしたもんかな……作るのも何か面倒だし……」
 台所を漁りながらぼやいていると、玄関のチャイムが盛大に響いた。こんな時間に来る人物は一人しか心当たりがない。心当たりはないが、まさかと思った。
 けれど、直人が玄関を開ける前に「おじゃましまーっす」と聞こえたとき、やっぱりなと思った。
「恭介! 勝手に上がるなって言ってんだろ!」
 台所から顔を出して吠えると、へらへら笑っている恭介が目に入った。
 勝手に上がり込むと、台所までやって来て「鍵しめない方が悪いってー。不用心だぞー」と言いながら袋を差し出してきた。
「……なにこれ」
「夕飯」
 袋の中にはタッパーがいくつか入っていた。おそらく恭介の母が持たせたのだろう。恭介はこんな気の利いたことをしない。
「おばさんから『最近ずっと帰りが遅くて、直の夕飯コンビニとかカップ麺とかばっかりだから、姉さんお願い』って母さんに連絡があったんだとさ」
 成長期の息子がコンビニやインスタントばかりで栄養偏ると心配したのだろう。ちょうどインスタントにも飽きてきたところだから素直に有り難い。
 袋を受け取ると、直人はさっさと恭介を追い返そうとした。
「おばさんにありがとうって言っといて。それから、用事の済んだ恭介はさっさと帰れ」
 虫か何かを追い払うような仕草を見せると恭介が「ひでぇ!」とわめいた。
「俺の夕飯も入ってんだぞ! 母さんが『直人くん一人で食べるのも寂しいだろうから恭介一緒に食べておいで』って」
 直人はおばさんの親切心に泣きそうになった。
 高一にもなって夕飯一人で食べるの寂しいなんて思いませんよおばさん。心からそう思った。
 深いため息のあと、もう一度タッパーの入った袋を見た。仕方ないなと思った。これは不可抗力なんだと自分に言い聞かせることにした。
「米はあるけど、みそ汁はインスタントだからな」
 一言だけ。
 それは要するに「うちで食べても良い」という意味。
 いつもと同じ笑顔か、それとも直人が面白いのか、相変わらずへらへらと笑っていた。
 夕飯の用意と呼ぶにはあまりにも簡単な作業だったが、恭介がタッパーをテーブルに並べると、直人がよそったご飯とお湯を入れたカップみそ汁を持ってきた。
 向かい合うように座り食事を取り始めると、ふと思い出したように恭介が口を開いた。
「直んとこの学祭って明日からだっけ?」
 思わずみそ汁を吹きそうになった。その様子に「直くん、きったなぁー」と恭介がわざとらしく言った。念のため言うが、まだ吹いていない。むせただけにとどめた。
 気管に入ったのか随分長い間むせていたが、どうにか落ち着いた頃に恭介を指さしてわめきだした。
「おっま……何で知ってんだよ? 間違っても来るなよ!」
 言って聞いた試しはない。頭ではわかっていても、それでもわめかずにはいられない。恭介が学祭になんて来たら、ただ疲労がたまるだけだ。冗談じゃない。
「なーお。可愛い女子高生紹介してよ」
 雨が降ろうと槍が降ろうと、恭介は絶対来る。確信したと同時にため息が出た。
 紹介しろと言われても、それほど女子と仲は良くない。クラスで一番話をするのはミサだという現状。黙っていれば美人ではあるが……
「……紹介しないでも十分なくらいいなかったっけ?」
 彼女という言い方は間違っている気がするので使わないが、恭介がデートだと言って出かけるときは毎回違う子だった。外見のせいか性格のせいかわからないが、意外に人気があるらしい。
 可愛い子を紹介しろと言うほど不自由してるようには見えない。
「なんだよー。俺がそんな女の子とっかえひっかえ遊んでるとでも言うのかー?」
「実際そうだろ」
 本人がどういう意識でいるとしても、直人から見ればとっかえひっかえ遊んでる。見るたびに隣の女の子が違うのだから。
 けれど、昔からそうだったわけじゃないような気がする。昔のことだから、直人もよく覚えていないのだが。
「別に俺だって誰彼構わずってわけじゃないんだぞー」
 夕飯をほおばりながら反論する恭介を呆れたような目で見た。
「付き合ってと言われるから付き合ってるだけだ!」
 偉そうに胸を張る恭介に、手元にあったタッパーのふたを投げつけてやった。本当はもう少し重さのある物を投げてやりたかったが、夕飯の席なのでやめておいた。
 ふたを頭に当てられると「物を投げるなー」と怒っていた。恐くも何ともない怒り方だった。
「……頼まれたら誰とでも付き合うのかコラ。もう少し向こうの気持ちも考えろよ」
 呆れ混じりの呟きに、恭介は少し笑った。
 その笑顔を見て、そう言えば昔からこういうヤツだったなと思い出した。
「一瞬でも少しでも、俺に出来るんだったらしてやりたいじゃん。幸せに」
 何故そんなに他人の幸せを願うのか、小さい頃不思議に思った記憶がある。

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