飾り気のない直人の部屋に、一つだけ似つかわしくないものがあった。
 水槽と、その中で今も元気に泳いでいる金魚。
 夏祭りのあの日、六花がくれた金魚だ。六花が最後にのこしたもの……
 あのとき残っていた手のぬくもりはもうとっくの昔に消えていた。結局金魚しか残っていない。
「……六花は、結局何なんだろう」
 金魚に話しかけるように呟いても、答えは返ってこない。返ってくるはずがない。
 今日も学校帰りに六花のところへ行ってみたが、窓をノックしても返事はなかった。他に窓の開いている部屋はないかと探しもしたが、窓は全て閉まっていた。
 正面から入ろうとすれば、おそらくあの木嶋という人に見つかって追い返されてしまうだろう。何を言っても彼女は六花に会わせてはくれない。それくらいは容易に想像がつく。
 もう、六花には会えないのだろうか。
 一度考えが暗い方へと向かい始めれば、そこからは簡単だった。どんどんと暗い方へ暗い方へと転がっていく。どこまでも転がっていく。
「たーのもーう!」
 拍子抜けするほど明るい声と、扉が乱暴に開けられる音が響いた。恭介だ。
 直人が呆れる暇もなく、いつもと同じような笑顔で「あれー?」とか言いながら直人に近づいてくる。
 無遠慮にもほどがあるとは思うが、遠慮がちな恭介を想像したら不気味だったので注意する気にはなれなかった。
「ずいぶん金魚元気そうじゃん。祭りのだからあんま長くないと思ってたけど、大事にしてるんだなー」
 余計なお世話だと呟きたくなった。
 六花から貰ったのに、大事にしないはずがない。
 この金魚がいる限りはきっと六花のことを忘れない。六花と過ごした時間は短すぎて、放って置いたらすぐに消えてしまいそうで……そのうち、六花の笑顔も思い出せなくなるような気がしていた。
 ただ黙ってじっと金魚を見つめている直人に、恭介は一言だけ残した。
「大丈夫だって」
 顔を上げ恭介の顔を見ようとしたが、恭介は戸を開けると「じゃ、お邪魔様ー」と背を向けたまま出ていってしまった。
 何に対して『大丈夫』と言ったのかはわからない。それでも直人のことを気遣ってくれたことだけはわかる。
 しばらく考えていたが「よし」と小さく口に出すと、パーカーを引っかけて家を飛び出した。
 もう秋も半ばを過ぎているだけあり、外に出ると思ったよりも風が冷たい。空を見上げるとぼんやりと月が出ていた。六花と桜を見に行ったときの月とよく似ていた。
「……大丈夫」
 夜道を走りながら、時折小さく口に出してみた。何も言わないでいるよりも、少しは気持ちが楽になる。
 本当はわかっていた。
 最初からダメだと決めつけて、何もせずに逃げていること。
 変わろうと思っていたのに、自分には何も出来ないと決めつけていた。
 変わらなきゃいけない。
 やってみたら意外な結果が出るかもしれない。
 やる前から結果を決めつけちゃいけない。
「だいじょうぶ」
 やる前から『ダメ』だと思わずに、『大丈夫』だと思って動かなきゃ、いつまでたっても前に進めない。
 わかっていたはずなのに、結局出来ていなかった。
 どうしても一歩が踏み出せないでいた。
 踏み出さずに、その場で出来ることを必死に探していた。
 それじゃ、ダメなんだ。
 いつもの道を通って、いつもの入り口をくぐる。けれど、ここからはいつも通りじゃない。今までずっと避けていたところへ。
「……」
 いざ扉の前に立つと、やっぱり手が震える。これでダメだと言われたらもう二度と六花には会えない気がする。それでも、一歩踏み出さなきゃいけない。動かないままでも六花には会えないから。
 深くゆっくりと息を吐くと、息が白くなった。もう随分寒くなってきているようだ。
 覚悟を決めると、目の前の扉を思い切り叩いた。周囲の家は少し離れたところにある。どれだけ叩こうとわめこうと人に聞かれる心配はない。
「出てこい! いるんだろ? 出てくるまでここから離れないからな! 俺は別にここに人がいるって周りにバレたって構わないんだからな!」
 ひょっとしたらもうここには誰もいないんじゃないかとも思った。けれどあの木嶋は「もう近づくな」と言った。ここから離れるのならそんなことを言う必要はない。おそらく、まだここに居続けるから「近づくな」と言ったはずだ。
 扉を叩き続けていると、ふいに扉が開いた。中から漏れる灯りはなく、照らすものは月明かりだけだった。
「もう近づくなと言ったはずよね?」
 木嶋の声。
 相変わらずどこか威圧的な響きだった。
 思わず一歩退きそうになるが、ここで退くわけにはいかない。
 心の中で「大丈夫」と唱えながら、木嶋を睨み付けた。
「もうあなたを『六花』に会わせるつもりはないわ。早く帰りなさい」
 何がおかしいのかわからない。けれど確実に妙なニュアンスのその言葉に直人ははっきりと言い返した。
「今日は六花に会いに来たわけじゃない」
 六花に会えるのなら会いたい。けれど、そうじゃない。今日はそうじゃない。今日はあくまでも『六花に会いに』来たわけではなく『六花に会うために』来た。
 直人の様子を怪訝そうに見ていたが、威圧的な響きは変わらなかった。
「これだけ騒ぎ立てて、何をしに来たと?」
 六花に会うために、そのために今直人が出来ること。
 それはただこの屋敷に通って窓を叩くことでも、ここで「六花に会わせろ」とわめくことでもない。そんなことで六花に会えるはずがない。
 これで六花に会えるとは限らないけれど何もしないよりは、きっと何かが変わる。
「……一里」
 ぽつりと出された言葉に、木嶋は明らかに反応した。
 それがどういう意味の反応か直人にはわからなかったかもしれないが、はっきりと何か反応を示した。直人にとってはそれだけで十分だ。
「五年前ここに六花と全く同じ容姿で同じ年頃の少女がいた。名前は一里」
 月明かりだけでは相手の顔色まではうかがえない。おそらく顔色は変えないようにしているだろうけども。
 静かに響く直人の声に、木嶋は極力反応しないようにしているようだった。
「これだけ歳が離れていて全く同じ容姿。アルビノで、しかも同じ場所。これだけの偶然が重なるなんて、普通はあり得ない」
 こんな偶然、起きる方がどうかしている。これだけの偶然が重なることは通常あり得ない。それは偶然ではない。起こるべくして起きたことだ。
 偶然なんて言い訳、出来るはずがない。
「一体六花は何者なんだ?」
 木嶋は答えようとしなかった。ただ黙り込んで、何かを考えているようにも見えた。
 けれど、ここで逃がすわけにはいかない。逃げられたらもう終わりだ。直人は一本の糸のようにピンと気を張りつめて、次の言葉を待った。

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