第六章 秋水

 どうして良いのかわからなかった。
 全て忘れてしまえば、おそらく楽になれる。それはよくわかっていた。
 直人が知った事実は重すぎた。一人で抱え込むには重すぎて、けれど誰にも言えない。どうにも出来ない。
 木嶋に言われた言葉だけが頭の中を回り続けた。
「 今日のことも含め『六花』のことは全て忘れて、あなたは日常に戻りなさい。その方が幸せよ 」
 つらい。楽になりたい。けど、それでも……
 次の日は学校を休んだ。雨に濡れたのに乾かさずにいたせいで風邪を引いたからだ。けれど、それ以上にどうしていいのかわからなく、何もしたくなかったという理由があった。
 両親は仕事だった。朝は何でもないような顔で送り出したから、おそらく風邪だとは気づかれていない。
「……だるい」
 声に出してみても、状況が変わるわけではない。
 静かな部屋。水槽のエアーポンプの音だけが小さく響いた。
 布団の中にいると、何をしているんだろうと思う。六花に会いたくて、動いて、それで会えたけれど、絶望しか残らなかった。六花の笑顔が見たかっただけなのに、笑顔も忘れてしまいそうだった。
 馬鹿みたいだ。
 これなら動かずに何も知らずにいた方がよかったのかもしれない。その方が幸せだった。六花に会えなくても、六花のことを思いだして、六花の笑顔を思い出して、小さな幸せに浸れたのに。
「恭介の、ばかやろう」
 ただの八つ当たりだ。恭介は何も悪くない。それでも、今にも壊れてしまいそうなギリギリで保っている今の直人は、こうでもしないとすぐに壊れそうだった。いっそ壊れた方が楽なのかもしれない。壊れてしまおうか。そうすれば悩まずに済む。
 考えがおかしいのは熱が高いせいなのかもしれない。
 ぼんやりと金魚を眺める。
 金魚すくいの金魚はあまり長くもたないとよく言われる。それでもきっとあの金魚をすくった六花よりは長く生きる。金魚は何も知らない。
 すくったとき、嬉しそうにしていた。そのすくった金魚の方が長く生きると言うのに、自分の方が早く死ぬというのに、どうしてあんなに嬉しそうに笑えたのだろう。
 そうだ。いつも嬉しそうに笑っていた。きっと六花は知らなかったんだ。冬には自分が死んでしまうことを。だからあんな風に笑えたんだ。
 ……いや、違う。直人は知っているはずだ。何度も見ていたのだから。時折、六花が消えそうな笑顔を浮かべていたのを。儚げな横顔を。消えることを知っていたんだ。六花は。それなのに、笑っていた。
「六花は……俺とは違うんだ」
 六花の笑顔のために何でも出来ると思った。六花の笑顔を守りたいと思った。
 けれど、それは思い上がりだ。
 直人が守らなくてはいけないほど、六花は弱くなかった。自分が死ぬことをわかっていて、それでも笑えるくらいに強かった。
 真実を知って、知らなければ良かったと後悔する直人とは違う。
 泣きそうになる。
 これもきっと熱が高いせいだ。
 遠くで玄関のチャイムの音が聞こえるのもきっと気のせいだ。熱が高いから幻聴まで聞こえるんだ。
「……ほんとに、鳴ってる……」
 無視すれば良いかと思った。実際、無視していると音が止んだ。留守だと思ってあきらめたのだろう。もう一度眠ろうと目を閉じるとほぼ同時に扉が開いた。
「直、生きてる?」
 出来ることなら顔も見たくなかった。今会ったら八つ当たりをしてしまいそうな相手。熱のせいで何を言い出すかわからないときに会いたくなかった。
 頭から布団をかぶり、恭介の顔を見ないようにして、籠もった声で短く尋ねる。長い言葉はおそらく凶器になる。傷つける言葉しか出てこない。
「何の用?」
 すぐ側まで近寄ってきた。気配でわかる。出来るだけ距離を取りたかったけれど、布団からは出たくなかったから大人しくすることにした。
 いつもと違う調子の声が降ってくる。
「直が学校に来てないけどどうしたって連絡があったから、心配して来てやったんだろ。昨日の今日だったしな」
 昨日、悩みに悩んでいた直人に「大丈夫」だと言った。そのあと何かあったんじゃないかと恭介なりに心配していたのだ。
 けれど、疑問がある。
「……連絡って?」
 布団から聞こえる籠もった声。頭ではわかっていても、まだ気持ちが落ち着いていない。恭介の顔をまだ見ることが出来ない。それでも恭介は大して気にした風もなく接してくれる。
「ミサちゃんからメールがあったんだよ」
 学祭で知り合っただけで、話をしたのもおそらくその一度きりなのに。いつの間にそれほど仲良くなっていたのだろう。
 それも不思議に思いはしたけれど、それ以上に意外だった。まさかあのミサに心配されているとは思いもしなかった。確かに学校に連絡を入れる体力もなく、無断欠席ではあったけれど。
「直」
 降ってくる声。それはいつもの軽い調子ではなく、恭介本来の優しさがはっきりと表に出ている声。恭介が隠していた本当の恭介。
「ずっとケータイ放置してるだろ? だから直は気づいてないだけ」
 布団越しに何か硬い感触。直人が何だろうと考えると「何も食べてないだろ? 何か作って来る」と言い残し直人は一階へと下りていった。
 扉の閉まる音が聞こえると、おそるおそる布団から顔を出した。布団の上には直人のケータイ。
「……?」
 開いてみるとメールが何通か。それから着信もいくつか。
 そんなに溜まるほど放置していただろうか。疑問を感じつつもメールを開いてみると、全て友人からのメールだった。
『どうした?』『今日休み?』『風邪?』『大丈夫?』『無理はするな』『安静に』『みんな心配してる』
 そして着信も全て友人から。
 ケータイを見ながら泣きそうになった。きっと熱が高いから涙腺もゆるくなっているんだ。
 直人の昨日の様子を、おかしいと感じていたのだろう。その翌日に連絡もなく休めば心配にもなる。きっと、それは至極当然のこと。
「……バレて、たんだ……」
 隠せていると思った。いつも通りの自分を装えていると思っていた。けれど、友人達は気づかない振りをしているだけで気づいていたんだ。最初から。
 そんなことにも気づかないなんて、自分は何て愚かなんだろう。
 泣きそうになりながら、それでも笑った。自嘲に近い笑い。それから、少しだけ嬉しかった。
「直の友達があまりにも心配してるから、それを見かねてミサちゃんが俺にメールくれたってわけ」
 いつからそこにいたのか、お盆を片手に部屋の入り口で突っ立っている恭介が目に入った。
 直人の側に座ると「少しでも良いから食べろ」と言って雑炊をくれた。お盆には水と薬も乗っていた。
 弱っているときは、人の小さな優しさが身にしみる。

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