「……なに?」 夢は唐突に終わった。 杏樹の伝えたいことがわかりかけたときに、目が覚めた。現実の直人には何もわからないまま終わってしまった。 身体を起こしてみると、もうすっかり良くなっていた。だるさも何も感じない。一瞬、お守りのおかげだろうかとも思ったが、安静にして薬を飲んだからだろうということにした。 喉の渇きを覚え、一階へと降りていった。もうすっかり夜も更けていた。 リビングの扉を開けると、父がソファに腰掛けていた。別に珍しい光景でもないが、酒を飲んでいるところを見るのは久しぶりだった。 「父さん、珍しいね。お酒」 飲めないわけではないらしいが、あまり家では飲んでいなかった。 棚からグラスを取り出し、水を入れて戻ってくると、直人は父の隣に座った。たまにはこういう日があっても良いだろう。 「……風邪は?」 少し酔っているようだ。赤い顔をしながらグラスを傾け、直人の方をちらりと見た。 酔うほど飲むなんて珍しいなと思った。 「もう大丈夫。明日は学校行くよ」 父の質問に答えながら、そういえば父は誰から風邪のことを聞いたのだろうとぼんやり考えた。朝は気づかれていなかったはずだ。そうなると、恭介から母経由で話が広がったと考えるのが妥当だろう。 水を飲みながら父の様子を見る。いつもとどことなく違う。何かあったのだろうか。 「……直人」 小さな呼び声。いつもより父が弱々しく見える。 ただ黙って父の次の言葉を待っていると、ため息が聞こえた。 「必死に隠そうとするなら、気づかない振りをしていようなんて考えるのは、間違っていたんだろうか」 途切れ途切れの言葉。何のことを言っているのか理解できなかった。 「それは結局、直人が苦しんでいるのを見て見ぬ振りをしているだけで、何一つとして良いことはなかったんだろうか」 父が何の話をしているのか。 直人にもようやく理解が出来た。 誰かから聞いたわけではない。父は最初から直人の風邪くらいわかっていた。直人が悩んでいることもわかっていた。ただ、息子があまりに必死に隠そうとするから気づかない振りをしていた。ただそれだけなんだ。 隠し通せていると思い込んでいた自分が愚かだと感じた。 「父さんも昔、親に隠したいことがあったから、直人の気持ちがよくわかるから、気づかない振りをしようと思ったんだけど……間違ってたんだろうな」 それは懺悔のような告白。 「恭介君から、直人が学校を休んだって聞いて、そこまでひどかったのかと思った。それなら気づかない振りなんてしないで、最初から手を伸ばせばよかったと……」 一人で抱え込んで、そのせいで父をこれだけ悩ませてしまった。悪いことをしたと思う。 それから、少しだけ嬉しかった。 「……父さん、ごめん」 父がそこまで直人のことを考えてくれているとは思わなかった。それが嬉しくて、申し訳なかった。 「今度からは、もう少し抱え込まないようにするよ。もう少し……」 そこまで言って気づいた。 きっと六花も一人で抱え込んでいた。 自分が人ではないこと。自分が冬には死んでしまうこと。ひょっとしたらもっと他にも何かあるかもしれない。けれど、直人よりももっと多くのことを抱え込んでいたはずだ。 誰かに頼ることもすがることも出来ず、一人で抱え込んでいたはずだ。 だって六花は直人に頼ろうとしたことは一度もなかった。 「……ねぇ、父さん」 声が震えそうになる。 これは寒いからじゃない。風邪のせいでもない。 気づいてしまったからだ。 「一つだけ、聞いても良い?」 直人には支えてくれる人がいる。友人や従兄や家族が心配してくれる。気づいてくれる。 けれど、六花には? 彼女は屋敷の中の人間としか接点がない。屋敷の人間に頼れるはずがない。それ以外は、直人だけ。その直人に嘘は吐きたくないと言って真実を話してくれた。それなのに、その真実を抱えるのがつらくて、六花のことを忘れようとした。 六花を裏切ろうとした。 「何を抱えているのか聞いて、でもそれは重すぎて、自分じゃどうにも出来ないってとき、父さんはどうする?」 聞いても仕方ないことかもしれない。 聞いたところで自分には何も出来ないかもしれない。 裏切ろうとしたのに。 それでも父は赤い顔をして、小さく笑った。 「どうにも出来ないなら、見守るしかないだろうな」 それじゃぁダメだ。 直人は六花を見守るだけじゃダメだ。それだけじゃどうにもならない。六花が死ぬのを見守るだけだなんて……それじゃぁ結局何も出来ないのと同じだ。 うつむき黙る直人を見守りながら、父はゆっくりと言葉を続けた。 「見守りながら、時に支えて……自分の思ったことを出来る範囲でやる。自分が助けになると、正しいと思ったことをする。それだけでも十分だと思うんだがな」 驚いたように顔を上げると、穏やかに微笑んでいる父の顔がそこにはあった。 それは『良い』と言うことだろうか。 震える声で、振り絞るように、最後の問いかけを。 「……思ったことを、やっても良いのかな?」 きっと父は酔っている。 朝になれば今日ここで話したことはきっと全て忘れている。 少しとろんとした赤い顔で、けれどはっきりと頷いた。酔ってはいるけれど、それは父の本心だ。 「あぁ。直人の思った通りにやってごらん」 それは、秋が終わろうとする頃。冬がすぐ側まで来ていた寒い夜。けれど、直人の心は妙に温かかった。改めて人のぬくもりを知った夜だった。 まるで秋から冬にかけての湖か何かのように、人の心が底の方まで見えたようだった。それくらい、人の心に触れられたと思う。 |