第七章 六花

 翌日には、何ともない顔で学校へ行った。
 家族も、友人達も、従兄も、直人が元気になったと思った。
 実際に直人は元気だった。不自然ではなく、ごく自然に元気でいた。
 けれど、まだ何も終わっていない。まだ始めてすらいなかった。
 直人は一つの計画のために、一人準備を進めていた。
 そして季節は冬になり、計画は実行へと移された。

 木嶋ははっきりと言った。
「彼はもう現れない」
 はっきりとそう断言した。六花が「直くんに何をしたの?」とつかみかかろうと、ただ「近づくなと言っただけよ」と答えるだけだった。
 直人が来ないのなら地下に閉じこめる必要もないと、六花はあの部屋に戻された。夏まで六花が生活し、直人との思い出が詰まっているあの部屋。
 時折、見つからないように地下を抜け出しこの部屋まで来てはいたが、戻されるとまた少し違う。
「……あの日、直くんはいきなり現れたんだよね……」
 カーテンを閉められた窓にそっと触れてみる。
 水溶液から出され……この世界に出てきて数週間だった。それより以前の記憶は全くなかった。けれど自分がホムンクルスで、周りの人達は自分を創った研究者だということはわかっていた。記憶はないのに知識だけはあった。
 屋敷の外に出てはいけないということも、最初から知っていた。けれど、外の世界への憧れも最初からはっきりと存在していた。
 あの日も一人でぼんやりと窓の外を眺めたり、本を読んだりしていた。
 そこに直人が窓から入って来た。
 唐突で何も理解出来なかったけれど、何故かはっきりと思っていたことがあった。
 きっとこの人は助けてくれる。
 何から助けてくれるのか、何をしてくれるのか、そんなはっきりとしたことまではわからなかった。漠然とした考えだったけれど、でも強くはっきりと思った。
 六花が思い出す限り、彼はいつも助けてくれた。
 研究者達はただ『自分たちの創り上げた物』としてしか見てくれなかった。けれど直人は一個の人格として、一人の人として見てくれた。最初はそれが誰かの代わりでも構わなかった。けれど、きちんと『六花』を見てくれるようになった。それだけで十分救われた。
 それなのに直人は優しく接してくれた。心配してくれた。手を伸ばしてくれた。
 もうこれ以上は何も望めない。望むことがない。
 思い出に浸りながらカーテンを開けた。この窓から外を見るのは随分久しぶりだった。
「……あれ?」
 窓の外。いつも直人が登っていた木の枝に紙が結わえられていた。
 不思議に思い、窓を開けその枝に手を伸ばしてみた。枝は六花でもギリギリ届く距離で、その紙を手にすることが出来た。
「……ただの紙じゃ、ないよね?」
 明らかに結ばれていた。風で飛んできたってあんな風にはならない。それなら誰が……
「っ! 直くん?」
 こんなところまで来る人を、六花は直人以外知らない。直人以外の可能性なんてないと思った。ひょっとしたらまだいるかもしれないと、身を乗り出して辺りを見回したがそれらしい影はなかった。
 そもそも、これがいつからここにあるのかもわからない。ついさっきかもしれないし、数日が経っているかもしれない。
「これ、って?」
 手の中にある紙を改めて見てみると、文字が書いてあるようだった。折り畳んであるから、何て書いてあるかはまだわからないが。
 これは手紙ではないだろうか。
 そう思うとあとは早かった。手紙を開くと、その文字を何度も何度も読み返した。
 間違いなく、直人から六花へ宛てた手紙だった。

六花へ
 最後にもう一度だけ会いに行きたい。
 都合のいい夜、この部屋の窓を開けて置いて欲しい。
 これで最後にするから。
                        桜井直人

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