冬の空は空気が澄んでいて綺麗だと知っていた。
 月がはっきりと見える。
「……あと何回くらい見られるのかなぁ」
 部屋の隅で毛布にくるまり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 都合のいい夜と書かれていたから、今日から毎晩窓を開けておこうと思った。いつ来ても良いように。けれど、冬に窓を開けっ放しというのは思ったよりずっと寒かった。コートでもあれば良いのだが、屋敷の中で一生を過ごすことが前提になっているので部屋着くらいしか置いていない。
「来て、くれるのかなぁ……」
 木嶋は直人が来ることはもうないと言った。けれど、彼は手紙で『会いたい』と言ってくれた。手紙には名前が書いてあっただけで、彼からの手紙だと言える確証はない。それでも、六花は直人が来ると信じていた。
 六花にとっての直人は、そういう存在だった。
 息を吐くと白くなる。知ってはいたけれど、実際に見るのは初めてだった。寒いと手先が紅くなるのも初めて。なんだか不思議と嬉しくなる。
 身体の機能は人間のそれとほとんど同じだった。
「六花?」
 窓の外から聞こえてくる名前を呼ぶ声。その声を聞くだけで嬉しかった。
 大声で名前を呼びそうになったが、誰にも知られてはいけないから、小さく呼んだ。
「直くん?」
 窓まで近寄ると、あのときと同じように直人が入って来た。いつもと少し違ってリュックを背負っていたけれど、他はいつもと同じだった。いつも通りの直人だった。
 嬉しくて泣きそうになる。けれど、泣くわけにはいかない。だって、これが最後だから。最後は笑顔でいたかった。直人の記憶に残る『六花』は笑顔であって欲しかった。
「六花、久しぶり」
 優しそうな瞳で笑う。それを見ると「あぁ、直くんだ」と思う。
 毛布にくるまっている六花の頬に触れると冷たかった。灯りが月しかないからわからなかったが、おそらく真っ赤なのだろう。
「コートとかは?」
 直人の問いかけに、六花は首を横に振った。
 声を出すと震えそうな気がして出せなかった。もう少し経てば落ち着くはずだから。もう少しの間は黙っていようと思った。
 そんな六花の気持ちに気づいていないのか、直人は「やっぱり」と呟きながらリュックを降ろした。
 リュックの中を探る直人の隣に座り、六花は首を傾げていた。直人が何をしようとしているのか想像もつかなかった。
「六花。ちょっと毛布取って」
 直人に言われ、六花は首を傾げたままくるまっていた毛布を畳んだ。すると「ちょっとおいで」と言って直人が手招きをした。六花の疑問は増すばかりだった。
「はい。サイズはたぶん大丈夫だと思うんだけど」
 そう言いながら直人が六花にかけるもの。それは真っ白いコート。
 状況が飲み込めずコートをまじまじと見つめていると、直人は手を差し出して一言こう言った。
「一緒に、外へ行こう」
 優しい笑顔。
 それを見るたびに、この声を聞くたびに、手を差し出されるたびに、いつも泣きそうになる。

 直人と六花は列車に乗った。あとのことは考えずに、今だけを考えた。
「六花に雪を見せたいんだ」
 外に連れ出した理由はただそれだけ。
 例え六花をあの屋敷から連れ出しても、六花の命が長くなるわけではない。直人がどうあがいても、そこを変えることは出来ない。それならば、もっと別のことをすればいい。
 六花が直人に望んだことは何だっただろう。直人が六花に出来ることは何だろう。
 直人なりに考えた結論がこれだった。
 列車に揺られながら、時間はゆったりと流れていく。列車にはほとんど人が乗っていない。時間のせいか、行き先のせいか。それはよくわからない。
 今、直人にわかることはそこに六花がいるということ。
 最初のうちは、落ち着かない様子で辺りを見回していたが、次第に興味が窓の外へと移っていった。
 窓に張り付くようにしてずっと外を眺めている。直人の前だからか、それとも常識があるからか、子どものようにべったりとは張り付いていなかった。
「六花。外は楽しい?」
 ずっと窓に張り付きっぱなしの六花を微笑ましく思っていた。
 六花は顔を直人の方へ向けると嬉しそうに笑いながら「すごく楽しい」と答えた。
 まるで子どもみたいだと思って六花を見ていると、六花は急に少しうつむいて何か言いづらそうにしていた。どうしたのか尋ねてみると、とても単純な答えが返ってきた。
「……なんか、私ばっかり楽しんで、直くん全然楽しくないよね。ごめんね」
 申し訳なさそうな声。ただの子どもではなく、中身はそれなりに成長しているのだと改めて感じる。
 六花の頭を撫でてやると、六花は驚いたように見上げる。
「俺は六花が楽しそうにしてるのを見るだけで、十分楽しいよ」
 嘘じゃない。
 本当に六花の笑顔が見れるだけで十分だった。
 六花が今を楽しんでくれるそれだけで嬉しかった。
「……直くん」
 直人の言葉が嬉しくて、その言葉だけで泣きそうで、六花の胸の中いっぱいに何かが広がっていく。じんわりとあたたかい。
 上手く言葉に出来ないのがもどかしかった。
 けれど、そのもどかしささえ大事なものだった。
 二人の間にあるものは、全てが大事だった。
 大事なものを一つ二つと着実に増やしていきながら、夜は更けていった。
 夜の闇の中に飲まれることなく、列車だけが走ってく。
「……」
 はしゃぎ疲れたのか静かに寝息を立てて眠る目の前の六花を見ながら、直人はぼんやりとこれからのことを考え始めた。
 これから先なんてどうでも良い。ただ六花との今を楽しみたかった。けれど、その『今』を少しでも長く続けるためには、これからのことを少し考えなくてはいけない。
 六花がいないことは、きっとすぐにでもバレてしまう。ひょっとしたらもうバレているのかもしれない。そうなれば、当然犯人が直人だとすぐにわかるだろう。おそらく足取りも簡単に……
 連れ戻されるのは時間の問題だ。
 それを少しでも先延ばしにするためにはどうすればいいか。出来るだけ早く、出来るだけ遠くへ。それ以外の方法が直人には思いつかなかった。
 ポケットに手を入れる。そこには財布だけ。ケータイは家に置いてきた。おそらくケータイはない方が良いだろうと思った。
 財布の中には、全財産を入れてきた。貯金も全部下ろしてきた。そこまでする必要もないはずだが、もしものときのために、やれる限りのことはしてきたつもりだ。
 列車を降りると、もう日が昇っていた。
 六花のことが気になったが彼女は「大丈夫」と言って笑っていた。その頭には見覚えのある帽子。
「……それって夏物じゃ……」
 夏に直人が買った白い帽子。それは夏物で、冬にかぶるのは間違っているような気がした。
 それでも六花は「良いの」と言って譲らなかった。
 ここは、直人達のいた町から随分遠いところだった。六花に雪を見せることができ、なおかつ遠いところと考えながらただがむしゃらに北上していた。けれどここにはまだ雪がなかった。
 駅員さんに話を聞いてみると「山の方なら」と言われた。山を登ろうかとも考えたが、六花に山を登らせるのは少し無理があるような気がした。
 また列車に乗って移動しようかとも思ったが、六花が辺りの風景を必死に見回していたので列車に乗るのは後回しにした。もうしばらくここにいてもきっと大丈夫だ。
 この町は……むしろ村と呼んだ方が良いような気もした。それくらい静かな場所だった。直人達の町では見ることが出来ないくらいの自然が溢れていた。おそらく、その自然が六花にとっては珍しかったのだろう。
「直くん、あの、あっち行ってみたいなぁ……」
 少し遠慮がちに山の方を指さした。
 正直、六花にはきついのではないか思ったが、六花が行きたいと言うのなら反対はしない。
 二人はゆったりと山の方へと向かっていった。
 まだ山の入り口だからだろう。雪なんて全然なかった。あるのは葉の落ちきった広葉樹くらいだった。動物がいるかとも思ったが、冬眠してしまっているらしく、頭上を飛んでいく鳥を数羽見かけた程度だった。
 それでも六花は嬉しそうに瞳を好奇心で輝かせていた。
「山って緑で溢れてて、動物もたくさん住んでるはずなのに、冬だとこんなに寂しくなるんだね」
 少し歩きづらそうにしながら、六花はどんどん奥へと進んでいく。
 その後ろをついていくようにして歩く直人は、周囲に気を配っていた。
 六花といる間は、気を抜かないつもりでいる。いつ追いつかれるかわからないから。向こうがどの程度の集団なのかも何一つ知らない。
「ねぇ直くん」
「ん?」
 黙々と歩き続けていた六花が不意に口を開いた。どうしたのかと思い先を促すと、しばらく考えてから直人の方を振り返った。
「お腹空かない?」
 明るい笑顔。その裏でも同じことを考えているのかわからない笑顔。そこまで考えて疑うのは良くないなと思い直した。本当にただ直人の心配をしているだけかもしれない。ただ六花が空腹なだけかもしれない。
 出来るだけ何でもないような笑顔を浮かべる。
「じゃぁ、一度町まで戻って何か食べようか?」
 手を差し出すと、六花は迷うことなくその手を取った。簡単にほどけてしまいそうな繋がり。例え離れてしまっても、このぬくもりは、手の大きさは、繋がっていたことは、絶対に忘れない。

 朝、直人がいないことを知った父はあまり心配していなかった。母が警察に連絡しようとするのを止め、帰ってくるから待ちなさいと言った。
 学校には風邪だと連絡した。けれど友人達は違うと直感していた。それでも、学校に戻ってくるのを待とうと決めた。
 従兄はこうなることをなんとなく予想していた。自分に止める権利はないことも、止めても絶対に聞かないことも昨日の時点でわかっていた。
 ただ願うは帰ってきてくれることだけ。

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