「六花っ、まだ大丈夫?」
 繋がったままの手を引きながら、直人は必死に走っていた。後ろで少し苦しそうな呼吸をしている六花が気になった。けれど止まれない。止まったら捕まってしまう。
 もう日も沈みかけていた。空が青から橙色へと変わりつつある。
 その空の下、もうどれだけ逃げ続けているのだろうか。
 少し早めの昼を食べに町へ下りていった。小さな定食屋で何の変哲もない定食を頼んだ。それでも、二人で食事を取ることは初めてだったから、なんだかとても特別に思えた。
 その定食屋で少し休んだあと、もう少し北に行ってみようかという話になって駅へと向かっていたときだった。
 明らかにこの町の人ではない雰囲気の集団。予想以上に早かった。
 駅へ行く道にいるということは、おそらく駅に行っても待ち伏せされているだろう。周辺の駅もおそらくダメだ。そうなると残る選択肢は山に逃げることくらいだった。
 山へ逃げたって、ただの時間稼ぎにしかならない。それでも他の選択肢はとっさに思いつかなかった。
 直人は六花の手を取って駆けだした。
 走り出してしばらくは向こうもこちらに気づいていないようだった。
 おかげで何とか山の中までは逃げて来れたが、こちらはあまり体力のない六花がいる。少しでも止まればきっとすぐに捕まる。
「……直くん」
 途切れ途切れに聞こえる小さな声。苦しそうな呼吸。聞いていてつらくなる。一瞬、やっぱり連れてこない方がよかったんじゃないかと思った。
「ごめんね」
 六花の小さな声。一瞬耳を疑った。
 何故謝られるのだろう。謝るのはむしろ直人の方だ。直人のせいで六花はこんなに苦しんでいるのに。
 振り向き口を開こうとしたとき、六花が小さく微笑んだ。
 それは精一杯の強がりか、それとも心配しないで良いと伝えたかったのか、どんな意図があったのかわからない。けれど、確実に六花は笑っていた。
「私に、会わなければ……直くんは、こんなに、振り回され、なかったん、だよね……ごめんね」
 違う。
 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うっ!
 六花は何も悪くない。これは直人が勝手にしたことで、六花は悪くない。
 そう伝えたかった。けれど、言葉が喉の奥で詰まって出てこない。
 ただ六花の言葉を聞きながら、六花の様子を見ながら、手を引いて歩くことしか出来なかった。
 どこまで歩き続けるのかもわからない。どこまでも歩き続けるのかもしれない。
「でも……直くんに、会えて……私は、すごく、嬉しかった。今も、すごく、嬉しいの。こんなに、迷惑、かけて……なのに……」
 六花の息が荒い。けど、どうにも出来ない。どうすることも出来ない。
 繋ぐ手に力が入る。
 けれど直人とは対照的に六花の手から力が抜けた。
「っ!」
 夏のあのときと同じだ。
 そう思うより先に身体が反応し、倒れそうになった六花の身体を抱きかかえた。その身体は、見た目よりもずっと軽い。
 青い顔をしたまま、それでも六花は笑った。
「ほんと、ごめんね……も、迷惑、ばっかり……」
 泣きそうになる。
 六花の笑顔が見ていてつらい。あんなに見たかった笑顔なのに、こんなにもつらい。
 もうここから動けない。
 二人でその場に座り込むと、六花はいくらか呼吸が楽になったのか、ゆっくりと口に出す言葉はあまり途切れていなかった。
「ホントはね、私もう今日でダメだなってわかってたの。なんとなくだけど、今日で終わりそうな感じがしてたの」
 おそらく笑顔で振り返ったとき、そのことを言おうとしたのだろう。今更そんなことに気づいても遅かった。もっと早く気づいていても、どうにも出来なかったけれど。
 今の直人に出来ることは六花の手を握り、隣で話を聞くことだけ。
 空はもうすっかり暗くなっていた。星がよく見える。けれど、雪はまだ見れていない。
「……私はね、六体目なんだよ」
 六花は唐突にそんなことを話し始めた。
 それは直人が木嶋から聞いたこと。一里、二葉、三夜、四海、五月、六花。六人は全員ホムンクルスだと。
「一里からみんな記憶を受け継いで、少しずつ知識を蓄えていくの。私は六人分の知識で出来ているの」
 目を閉じ、淡々と言葉を綴る。
「一里は恭介さんの名前だけは忘れたくなかったの。でも、やっぱりそれは不要な記憶だから消されちゃって……それでもね、やっぱりどこかで覚えているんだよ。私、恭介さんの名前聞いたときにどこかで聞いたことがあるって思ったもん。そのあと一里の話を木嶋さんに聞いて、やっと恭介さんの名前を知ってる理由がわかったの」
 閉じていた目をゆっくりと開け、直人の方を見て真っ直ぐに笑った。
 どうして今にも死にそうなのに笑っていられるんだろう。
「だから、ね。私が死んでも、次の七体目になっても、直くんのことは絶対に忘れないから。消されても、絶対どこかに残ってるから。だから、絶対忘れないよ」
 それは別れの言葉のようだ。
 そんな言葉が聞きたくて、直人は六花を連れ出したわけじゃないのに。
「……忘れても構わない」
 喉の奥で詰まっていた言葉を無理矢理押し出した。
 このまま黙って看取るなんて嫌だ。
 直人にだってまだ伝えていない言葉が、言いたいことがあるのに。
「忘れても、思い出させるから! だから、忘れたって構わない! だから……」
 肝心の伝えたい言葉は喉の奥で詰まって出てこない。
 だって、目の前で六花は泣きそうな瞳で笑うから。
 もう限界だと瞳は言っているのに、それでも平気そうに笑うから。
「ありがとう、直くん」
 笑わないで良いんだと伝えたいのに、それは結局言葉となって出てこない。
 直人も今まで散々笑顔で隠してきたから。そんなことしないで良いなんて言えなかった。その気持ちがよくわかるから。
 言葉が途切れてしまった。
 言わなければ伝わらないとわかっているのに、言葉として発することがどうしても出来ない。
 二人の間に沈黙が流れていたが、六花は急に「あ」と一言嬉しそうな声を上げた。どうしたのかと思い顔を上げると、空から白いものがゆっくりと舞ってきた。
「直くん。雪だよ」
 半ばあきらめかけていた雪が、ゆらゆらと降ってきた。
 空を見上げながら六花は何を思っているのだろう。
「……雪の異称は『六花』なんだよな」
 直人の言葉に六花は驚いていたようだが、すぐに小さく微笑んで「……うん」と頷いた。
 だから、直人は六花に雪を見せたかった。雪は……六花はこんなにも綺麗だと教えてあげたかった。けれど、六花は直人の考えとは別のことを話し始めた。
「綺麗だけど、人の手の上ではすぐに溶けちゃうし、積もったら交通機関を麻痺させたり、人に害を与えてばっかり……人の世界に近づこうとして降ってくるのに、迷惑にしかならなくて、近づいてくれた人にも何も残せない……私みたいだよね」
 どうして?
「桜なら、人の血を吸っても綺麗な桜色になるのに……雪は紅く染まるだけ……雪も桜色に染まったら、綺麗なのにね」
 どうして六花は笑いながらそんなことを言うのだろう。
「だから、私は桜が好きなのかな……儚くても、人の世界で生きて、人に愛されて……雪が桜に憧れるなんて、変だよね」
 小さく笑いながらゆっくりと目を閉じる。
 直人にもわかる。もう終わりが近いことが。
 握る手に力が入る。
「俺は……」
 最後に一つだけ。
 これだけはわかっていて欲しかった。
「俺は、六花が、雪が好きだ! 迷惑なんかじゃないし、ものは残らなくても、ちゃんと心の中にたくさん残ってる! だから……」
 だからそんな風に思いこんだまま死なないでくれ。
 伝えたい言葉は結局伝えられない。
 それでも六花は最期にもう一度笑ってくれた。そんな笑顔が見たくて言ったわけじゃなかったのに。
「ありがと……私も、それでも雪のこと好きだよ」
 どうして伝わらないんだろう。
 そうじゃない。違うんだ。雪のことじゃないんだ。
「ばいばい、直くん」
 握っていた六花の手から力が抜けた。最期に一度だけ握り返してきた手。
 どうしたらいいのか、もうわからなかった。ただ泣きたかった。
 六花が死ぬことはわかっていた。覚悟もしていた。けれど、結局何も出来なかった。伝えたかったことは何一つとして伝わらなかった。
「……これだけ無理をした割には長く保ったわね」
 木の陰から出てきた木嶋が時計を見ながら呟いた。
 もはや直人には睨み付ける気力も残っていない。
「あなたには感謝するわ。これだけ貴重なデータをありがとう」
 淡々とした言葉。感謝も、六花への追悼の気持ちも何も感じられない。
 近くから出てきた人達に六花の身体を運ばせると、木嶋は直人を見下ろすように正面に立った。
「あなたも物好きね。もうすぐ終わりだとわかっていながら『六花』を連れ出すなんて」
 木嶋の言葉を聞きながら、直人は前から感じていた妙な感じの正体がわかったような気がした。
「家まで送ってあげるわ」
 ついてきなさいとでも言いたげに木嶋は歩き出した。
 けれど、直人はついていく前に一つだけ言いたかった。これだけはどうしても。
「六花は人間です」
 ずっと前から感じていた、木嶋の言葉に感じる違和感。
 それは六花のことを『物』としていることだった。
 六花達のことを生き物ではなく、ただ『物』としか考えていない。
 そう言うニュアンスがあった。
「創られたとしても、ただの『物』じゃありません」
 木嶋からの返事はなかった。
 ただ直人の少し前を歩いているだけだった。
「六花はちゃんと『命』を持った『人』です! 一人の人間なんです!」
 静まりかえった山に、雪がしんしんと降り積もった。それは翌朝、町の人や近隣の多くの人に知られた。けれど、その山で一人の少女の命が尽きたことは直人以外誰も知らなかった。
 あの夜降った雪は、六花への贈り物だったのではないかと思う。

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